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2018年4月1日日曜日

奈古神社

奈古神社 (旧郷社)






祭神:天津彦々火瓊々杵尊 あまつひこひこほのににぎのみこと
  :鵜葺草葺不合尊 うがやふきあえずのみこと
  :神日本磐余彦天皇 かむやまといはれひこのすめらみこと - 神武天皇 じんむてんのう

鎮座地:宮崎県宮崎市南方町御供田一一九二番地

例祭日:九月十五 日

社殿:本殿 三坪
  :拝殿(切妻造) 八坪

境内坪数:三、三八六・三七坪

創立年月日:第十三代天皇成務天皇十三年(一四三)

由緒沿革:
 瓊々杵尊は日向国高千穂槵觸の峯(くしふるのみね)に天降り給い、国内を巡覧し当地に至り、この地朝日の直刺す国夕日の日照る国也、これは何山の領域かと問われたところ、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)の領地と答えた。
瓊々杵尊は吾田長屋笠狭の御碕(あたのながやのかささのみさき)に至り天神地祗を祀った。
のち成務天皇十三年武内宿祢(たけうちのすくね)が磐余彦命(いわれひこのみこと)・葺不合命(ふきあえずのみこと)を祀ったと、神社の縁起に伝えている。

 旧称奈古八幡宮とも長屋神社とも称し、南方・池内・上北方・下北方・花ヶ島・江平六カ村の産土神として崇敬されてきた。
領主伊東氏およびその家臣から厚く尊崇され、度々社領の寄進があり江戸初期には神領十石を有していた。
その後延岡藩内でも有数の神社として、毎年九月十五日の大祭には延岡藩代官が社参、のち藩主内藤氏の代参があり、これより内藤氏の祈願所となった。

 明治維新後奈古神社と改称、同四年村社に列した。










末社・愛宕社





末社・小藪稲荷神社





末社・大将軍神社





三千日垢離成就塔

境内には三千日垢離成就塔といわれる石碑が存在するが、これは戦国期に都於郡城主伊東氏より奈古神社宮司へ嫁いだ女性が、夫の死後女体で神事をつかさどり、海水での水垢離(みずごり)を三千日行ったところ遂に胸毛を生じて男体のようになったという伝説によるものである。








また社殿後方にある前方後円墳は祭神瓊々杵尊の御陵と伝えられている。





春神楽


平成三十年四月一日、春神楽が行われていました。
生活の安定を願い、豊作や豊猟(漁)を祈願し感謝する春神楽の舞が行われます。

奈古神社では宮崎市南方町御供田/鬼神の舞ともいわれる神楽です。


神事







浦安の舞






とこしこ







鬼神






細目【うずめ】









参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
奈古神社公式ホームページ http://nago-jinjya.or.jp/

2017年5月27日土曜日

新名爪八幡宮

新名爪八幡宮 (旧郷社)





祭神:誉田別命 ほむだわけのみこと
  :玉依姫命 たまよりひめのみこと
  :息長足姫命 おきながたらしひめのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市大字新名爪字四四四九番地(宮崎県宮崎市新名爪4449

例祭日:十一月十五 日

社殿:本殿(流八幡造)六坪
  :拝殿(入母屋造)十六坪

境内坪数:一、〇三〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 第八十一代安徳天皇の養和年中(一一八一~八二)この地に創建したもので、社伝によれば、豊前領主土持冠者左衛門景綱が日向の地頭の時、宇佐八幡宮の分霊を勧請したと伝える。
土持八幡宮、または単に八幡宮と称していた。
宇佐八幡宮新名爪別府については、『宇佐大鏡』によれば、治暦二年(一〇六六)とあることから、当時新名爪の鎮守として勧請したと思われる。

明治二年郷社となり、新名爪神社と改称したが、昭和四十八年旧称の新名爪八幡宮に戻し現在に至っている。






境内末社 左、若宮神社 右、一之宮神社・宮本神社 






また、室町時代の作といわれる舞楽面「陵王」(縦三十糎、横十八、鼻の高さ十三.五)が伝えられており、宮崎市指定の有形文化財に指定されている。

舞楽面は全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県観世音寺、大分県宇佐八幡宮と、新名爪八幡宮に限られており、本面は豊後宇佐八幡宮の関係において存在し、その南限と思われる。
また、新名爪八幡宮の氏子にとっては、不老面(年をとらない面)と呼んで崇敬厚く、一方では恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化的、民俗学的に意義あるものである。










参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年5月21日日曜日

宮崎八幡宮

宮崎八幡宮 (旧郷社)






祭神:誉田別命 ほんだわけのみこと - 應神天皇 おうじんてんのう
  :足仲彦命 たらしなかつひこのみこと - 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう
  :息長足姫命 おきながたらしひめのみこと - 神功皇后 じんぐうこうごう  
  :伊邪那岐命 いざなぎのみこと  
  :伊邪那美命 いざなみのみこと  
  :橘大神 たちばなのおおかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市宮田町三ノ二七

例祭日:十月十五日

社殿:本殿(流造)六坪
  :拝殿(権現造)六十六坪

境内坪数:二、五〇〇坪

創立年月日:永承年中(一〇五〇)頃

由緒沿革:
 当社は今より千年前の永承年中一〇四六一〇五三この地方の開拓にあたった海為隆(国司)がこの地にそれ以前よりお祀りしていた橘大神とともに宇佐八幡宮をこの地に勧請して祀り、この地方を開拓したものである。

鎌倉時代に記された『建久図田帳』、『宇佐大鏡』などの古文書にも、その頃の地名として、渡別府(わたりのべっぷ)と記され、その頃の様子がいくぶんわかる。
当宮も、渡別府八幡、宇佐八幡、八幡宮等の名称で親しまれていたことは、当宮に残る社宝の棟札からも判明される。

それより時代とともに、内藤の諸侯、領主をはじめ、宮崎郷の中心として信仰され、宮崎の氏神として「八幡さま」の愛称とともに、人々に崇敬されてきた。
江戸末期から明治五年にかけては、この地に私塾(開設杉田千蔭)があり、宮崎小学校はそれを母体に開設された。

当宮は明治時代からは、八幡神社と称したが、その後の発展にともない、昭和四十三年(一九六八)十二月より宮崎八幡宮と改称し、つづいて境域の拡張、整備が行われ、昭和五十三年(一九七八)十月にはご社殿、神門、拝殿のご造営の竣工を見、つづいて昭和五十六年(一九八、参集殿の竣工をなし、武勇の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けている。

なお特殊神事として、夏祭り(七月末日)、どんど焼(一月十四日)神事などがあり、多くの参拝者を集めている。







一ノ鳥居先の神門の上部には、それぞれ外側に「萬世泰平」、内側に「神徳教仰」の額があります。





境内末社 稲荷社







境内 水神塔 等








大鳥居より外 北十米程 旧跡案内板






また、年末年始の時期には尊崇される氏子企業等からの奉納品が境内にも多くありました。
下記は大鳥居前に置かれた「川越酒造場(国富町)」奉納の朱樽です。











参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年4月12日水曜日

加江田神社

加江田神社 (旧郷社)







祭神:天照大御神 あまてらすおおみかみ
  :伊弉諾命 いざなぎのみこと
  :伊弉美命 いざなみのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市学園木花台桜一ノ二九ノ四

例祭日:三月三日

社殿:本殿(神明造) 五.八坪
  :拝殿(流造)二〇.四七坪
~寛政十一年(一七九九)造営、飫肥藩伊東家寄進

境内坪数:九八〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 伊弉諾大神が檍原で禊された所として、元加江田村字中原という所に鎮座された。
寛文二年(一六六二)の大地震の時、海辺の一村は沈み、田畑高八五〇〇石が損失し、その他末社斟鉢神社(斟鉢山山頂付近)の社領も海に没した。
その時河野某なる者、ご神体を泥海の中から辛うじて奉り、字仮神という所に小社を過構えた。
寛文十二年(一六七二)九月十八日字丈之馬場へ遷し奉った。
寛政十一年(一七九九)九月二十九日ご殿並びに舞殿等を再興する。

此社は往古より加江田伊勢神明宮と称し、日向国旧社の一社である。
ことに皇室の大祖たる天照大神ご出生の霊蹟と云い伝えられ維新の際加江田神社と改称、郷社に列せられる。
維新以前は、飫肥藩崇敬社としてご神殿、祭具等伊東家のご紋を彫刻され、毎年二、六、九月の例祭には領主自ら参拝された。
祭典時には神事料、玄米弐石弐斗八升を下賜されたと伝えられている。

天照大神が上古天の長田狭田に御田作られし古事に準じ、毎年三月の例祭には社人牛を用いて田作りをする。
その時松葉を苗として植える。
里人は祭典修めを待ち其の苗を申し受け我が家の守り神として謹んで拝するのである。








境内に末社
斟鉢神社の遙拝所があります。






境内末社 福智神社






境内末社 御年神社




奉納碑




↓書き起こし文

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奉納碑

 当神社は、寛文二年(一六六二)の外
所大地震により水没した為、加江田元伊勢
から高台の当地に移転してきた。その後、
平成五年の台風で鳥居の倒壊を初め、境内
各所に大きな被害を受けた。
 その為、大地震から三百五十年にあた
る平成二十四年までに、元伊勢の風格にふ
さわしい本来の荘厳な姿を甦らせたいと整
備を進めてきた。平成二十一年には、天皇
陛下御即位二十年及び本殿再興二百十年を
記念し、社殿周囲の石垣積み等の大造営を
行った。また、最終整備として神社正面右
手と大楠を囲む石垣上に玉垣を、更に境内
に灯籠を設けようと計画準備していた。
 ところが、平成二十三年一月二十六日霧
島新燃岳の大噴火、同年三月十一日東日本
大震災と未曾有の大災害に見舞われた。天変
地異は日本列島の宿命ながら、当神社の氏
子崇敬者の神に対する畏敬の念更に強く、
社会情勢の厳しい中一致団結して、灯籠二
十四基、玉垣八十基を寄進し、この造営事
業を無事完成させた。
 天地悠久の大道である神道を以て、神職
氏子崇敬者一同、神のみこともちとして国
の復興、隆昌、世界の共存共栄を祈り奉納
するものである。

  平成二十四年二月二十四日

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伊勢神楽

毎年三月三日の春の例大祭で五穀豊穣を祈願して舞われています。
一時は舞手が一人になってしまい廃絶の危機にありましたが、平成十九年から地元の子供たちへの指導にあたるなど継承に努め、平成二十五年十月十五日には伊勢の式年遷宮で奉納されました。






参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年3月24日金曜日

巨田神社

巨田神社 (旧郷社)






祭神:誉田別命 ほんだわけのみこと 

  :神功皇后 じんぐうこうごう 
  :上筒男神 うわつつおのかみ 
  :中筒男神 なかつつおのかみ 
  :底筒男神 そこつつおのかみ 

鎮座地:宮崎県宮崎市佐土原町上田島一〇七三二番地


例祭日:十一月十五日


社殿:本殿(三間社流造)六坪

  :拝殿(入母屋造)十五坪

境内坪数:一、三五二坪


創立年月日:不詳



由緒沿革:
 創建は「淳和天皇の御代天長八年(八三一)九月十五日飛箟原に白羽の矢一対飛び来る、ここに祠をおく」と伝えられているが定かではない。
はじめ天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祀っていたが、寛治七年(一〇九三)佐土原町上田島、下田島を宇佐神宮の神領とした際、宇佐神宮のご分霊を勧請し、巨田八幡宮と呼ばれていた。

旧佐土原藩では祈願七社の内の一社として、島津氏より親拝や代参がなされ、地元では八幡様と呼ばれ親しまれていた。


棟札によれば、文安五年(一四四八)佐土原(藤原)祐賀によって再興され、永正五年(一五〇八)には都於郡城主伊東尹祐により再興されている。現在の本殿は天文十六年(一五四七)の建立と確認されている。

三間社流造の本殿は南九州に数少ない中世建築として二十二枚の棟札とともに昭和五十三年五月に国の重要文化財に指定された。
また、本殿を中央にして左に若宮社(祭神仁徳天皇 享保十二年 (一七二七) 建立)、右に今宮社(祭神素盞嗚命 貞亨三年(一六八六) 建立)があり、両社とも一間社流見世棚造で、昭和五十八年に県の有形文化財に指定されている。

昭和五十六・五十七年には本殿・摂社の解体修復事業が国県町の助成を得て行われ、彩色社殿の優美な姿が再現された。


ご社殿前斎庭左側には、元禄十三年(一七〇〇)五月二十八日、城主島津惟久公が祈願成就のため奉納した石燈籠一基が現存している。
















巨田神社境内前 推定樹齢二百年のイチイガシ









巨田神楽  平成五年町指定無形文化財


巨田神楽は、巨田神社に古くから伝わる神楽で、神楽面や大太鼓などの紀年銘から慶長年間(一五九六 ~ 一六一五)には舞われていたようです。

毎年、秋の例祭日には巨田神社の境内で三十三番が奉納され、町内外の見学者は、その太古の神々の神聖な世界に引き込まれ、厳かな秋の一日に浸っています。

この神楽は、哀愁を帯びた旋律と軽快なリズムを横笛と太鼓で表現し、他所の神楽とは違った独特の趣を有しているという特徴があります。






2023年11月12日の巨田神楽の様子









真剣を使い、大蛇に見立てた縄を切り付ける蛇切り神事










県指定無形民俗文化財 巨田池の鴨網猟






旧案内板




新案内板


巨田の大池 [MAP] とそれを囲む丘陵地は四百年以前から越網の猟場として受け継がれ、現在はこの巨田と、石川県片野[LINK]、鹿児島県南種子島町[PDF]に残る貴重な古式狩猟地である。


渡鳥の季節、昼間池を埋めた鴨は日の入りに飛び立って、餌場へ、日の出とともに休息地に帰り羽を休める。

この時、池を囲む丘陵の上すれすれの高度で丘を越す。この習性を利用してここの位置からも見える様な丘の上の立木を切り鴨の通る道(越、坪)を開く。
鴨の出入りは日の出、日没の二〇分前後と定まっている。この時坪にかくれて越網を構え、矢の様な速さで通る鴨の鼻先きに投げかける。
網の目に首を突込んだ鴨は網とともに落下してくる。
瞬間に鴨の飛翔方向、高低、速度、不測の方向転換などの予測判断を行い、網投げ上げ時期を決定することは各種運動競技の呼吸に合致するものであり、当然熟練した技法が要求される。

江戸期は藩の猟場として許可された者のみが坪に立つことを許され身心鍛錬の一つとして受け継がれ、現在に至っている。









参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
みやざき文化財情報:巨田池の鴨網猟 http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/details/view/2015