ラベル 元宮崎市域-檍地区 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 元宮崎市域-檍地区 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年12月3日日曜日

松熊神社

松熊神社 (旧無格社)






祭神:伊邪那岐命 いざなきのみこと
  :伊邪那美命 いざなみのみこと
  :速秋津彦命 はやあきつひこのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市小戸町三六番地

例祭日:六月三十日

社殿:本殿(流造)七坪
  :拝殿(切妻造)十五坪

境内坪数:一三二坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 第十二代景行天皇の御宇、小戸神社と同じく松熊山にご鎮座されたが、寛文二年(一六六二)九月十九日の西海大地震による洪水のため、社殿流失の災厄に遭い、のち下別府字下北山に再祀した。
その後、船持の人たちが相談して赤江川(大淀川)の港脇へ祠を建て、水門の神として遷座申し上げ、ご社名は往古の鎮座地であった松熊山の松熊を付した。
水門の神は禊祓い給いし、伊邪那岐命を主神に(ご鎮座地も今に小戸町)以下、この禊祓によって生れ出で給いし神々である。

明治百年の昭和四十三年五月一日その記念事業としてご本殿の改築を行った。









境内摂社










参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年5月27日土曜日

岩ヶ瀬水神神社

岩ヶ瀬水神神社







祭神:速秋津姫命 はやあきつひめのみこと
  :宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市吾妻町一〇九

例祭日:七月

社殿:本殿(流造)一坪
  :拝殿(流造)三坪

境内坪数:九七.六一坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 大淀川の下流左岸に鎮座。この地はいわゆる「橘の小戸の阿波岐原」(古事記)の伝説地である。

古くは大淀川の入江に近く、社殿の裏まで川が入り込み、この水を引いて一帯の水田に灌漑したと言い、その水口に祀られていた水神であるため岩ヶ瀬水神と称え、船主等の崇敬の神であった。

昭和四十七年(一九七二)には海上自衛隊の護衛艦「いわせ」に当神社の御祭神を分神として艦の守護神として祀られている。








境内末社 橘稲荷大明神・水神宮














参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年5月15日月曜日

江田神社

江田神社 (旧県社)






祭神:伊邪那岐尊 いざなぎのみこと
  :伊邪那美尊 いざなみのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市阿波岐原町産母127-イ号・ロ号

例祭日:十一月二十二日

社殿:本殿(流造)三.四坪
  :拝殿(流造)十二坪

境内坪数:一〇.三四一、二四坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 当社の創建は詳らかではないが、「和名抄」宮崎郡条に見える江田郷に鎮座する古社で、承和四年(八三七)八月朔日に都農神・妻神・霧島岑神とともに官社に列しており、平安期にはすでに創建されていたことがうかがえる。

鎮座地一帯は古来いわゆる日向の橘の小戸の阿波岐原として、伊邪那岐大神の禊祓の聖蹟と伝承されており、命の上つ瀬は瀬速し下つ瀬は瀬弱しといわれ、中つ瀬で禊祓いされた、その中つ瀬は、本社から二町位東の海中である。

寿永年間(一一八二~一一八四)伊邪那美尊を配祀し、産母二柱大明神と称し、里人からは産母様として親しまれ、社領三十余町を有していた。

仁寿元年(八五一)十月従四位下を授けられ、貞観元年(八五九)従四位上に進められ、その後天禄元年までに天変地妖兵革等の年毎に叙位八回に及び、正一位に昇階ありと伝える。
醍醐天皇の延喜年間(九〇一~九二三)に於いて、延喜式内社日向四座の一社として「延喜式神名帳」に登載され、祈年・新嘗の奉幣を受けた。
しかし、寛文年間に神社制度の変革をきたし、ついに一村落の産土神と同様の取扱いを受けるに至った。

明治六年(一八七三)五月二十五日社格は県社に列し、同四十年(一九〇七)二月九日神饌幣帛料の供進を指定され今日に至る。

特殊神事として、伊邪那岐尊の禊祓の故事にちなんだ「オンバレサマ」という浜下りの行事、茅の輪潜りなど大祓に関するものがある。









江田神社 御神木 クスノキ


 二ノ鳥居をくぐり右手にあります。
御神木下部のコブを素手で撫でるとご利益があると云われています。




古代の江田駅跡 案内板








月天子塔 (一ノ鳥居前)






また、境内より北部には伊邪那岐尊が禊払いを行ったと伝わるみそぎ池 [MAP] と、昭和三十四年に天照大神の御神霊に「阿波岐原みそぎ御殿を建つべし」との神託により奉建されたみそぎ御殿 [MAP] があります。

共に当社参道脇から市民の森公園 [MAP] を経た場所にあります。








参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

みそぎ御殿

みそぎ御殿 (社格なし)







祭神:天照皇大御神 あまてらすおおみかみ
  :月読尊 つくよみのみこと
  :伊弉諾尊 いざなぎのみこと
  :伊弉冉尊 いざなみのみこと
  :級長津彦命 しなつひこのみこと
  :級長戸辺命 しとなべのみこと
  :豊受大御神 とようけのおおみかみ
  :倭姫命 やまとひめのみこと
  :瀬織津姫命 せおりつひめのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市山崎町字浜山

例祭日:四月三日

社殿:本殿(神明流造)
  :拝殿(流造)

創立年月日:昭和四十一年(一九六六)三月十二日

由緒沿革:
 祝詞の「日向の橘の小戸の阿波岐原」また古事記、日本書紀などにあるこの阿波岐原とは、この一帯を指し遠い神代の地名が今も伝承されている所です。
この阿波岐原は伊弉諾尊が禊祓(心身を清めること)の際に畏くも天照皇大神を初め月読尊、素戔嗚尊と住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)がお生まれになった聖域です。

昭和三十四年(一九五九)十一月十五日から十二月九日にわたり大神の御神霊は「阿波岐原みそぎ御殿を建つべし」との神託と御殿造営現地に誘導あり、これが神名ならびに御殿のはじまりとなり昭和四十年(一九六五)二月十五日天府の宮みそぎ御殿は奉建されました。

この御殿の神域は、その昔禊祓された伊弉諾尊が「神籬(ひもろぎ)をたて茅(ちがや)の注連(しめ)をめぐらし三・七・二十一日の間、天つ神の照鑑を仰ぎ給ひ祭祀神楽を執り行われた、尊い霊跡である」と神語されています。
即ち、この地は禊をすまされた伊弉諾尊が祭場を設けられ、そこに天つ神をお迎えして恭しくわが国の発展と国民の繁栄を祈願された所で住吉の由来がここに初めて明かとなった真に由緒深き霊地であります。

また「御殿造営なりしときは伊勢神宮に迎えに来い」と神託を賜り、昭和四十一年(一九六六)三月十二日伊勢神宮において厳かに神事奉楽ありて御神霊を拝受し、おまつりしてあります。

この神代霊跡の地に創建された御社には「天つ神、国つ神をはじめ全国の神々が神集う所」とも神語されており、神々のふるさと、みそぎ御殿は広大無辺の御神徳を垂れさせ給う尊いお宮であります。

御殿造営にあたり畏くも天照皇大神の御神霊は次の神詠をお授けになりました。


  御殿造営前 (昭和三十八年十月四日 於 江田神社前)

 阿波岐原ゆるぎなき世の礎を 閉ずともかたき岩戸や開かむ

  心みそぎて岩戸開かむ ただきわみなる人の真心


  御殿造営後 (昭和四十一年一月二十二日 於 御殿前)


 夜あけ鳥高らかに時つげぬ

     岩戸開くは暁の神


なお、この一帯には前記みそぎの御池の他、天照山天孫ニニギノ尊の祭地ならび日月天の祭祀地など御神霊の誘導により明かとなった神代の霊跡があります。

付記 みそぎ御殿創建の儀ならびに神代霊地は、霞会伊藤ヨ子女史に天啓を賜り明らかとなったものです。



また、本神社では神殿の撮影は禁止されています。
 




西の参道





東の鳥居










また、みそぎ御殿では拝礼の作法が他社とは違い、二拝・四拍手・拍手・一拝となっています。









ここより東方約二百米の所に天孫三宝の霊跡があります。三宝とは天照大神からニニギの尊でご親授の三種の神器でニニギの尊がここで親しく神宝のお祭りを執り行われた霊跡であります。
これより更に二十米東方に「天照山伊褒理(てんしょうやまいぼり)」があります。ここは神示によって明らかになった聖域で天つ神が御降臨された所で、神々の会議されし尊き神山である。
太古は大海原に面し波に襲われぬ所であった


みそぎ御殿奉賛会






日の光日月天の祭祀霊跡




神示によって明らかになった場所で
「日の光日の光日月天の祭り事をした大事な場所である」
即ちみそぎ祓いをすまされたイザナギの尊が、ここで太陽・月・風雨などの自然現象が平穏無事であることを天つ神に祈願されし尊い霊地であります。
この碑は是より約百米東方の丘陵地の松林の中にあったものを、公園整備の際ここにお移り願ってお祀りしているものである。

みそぎ御殿奉賛会




境内社 水神社 罔象女神 (みずはのめのかみ)









尚、以前は江田神社ご本殿右手後方からみそぎ御殿への参道があったようですが、現在は通行禁止となっているため、市民の森公園から入っていくのが最も判り易い道筋となっています。

公園内の下記のような案内に従っていけばすぐに辿りつけます。







2017年3月10日金曜日

一葉稲荷神社

一葉稲荷神社 (旧村社)







祭神:倉稻魂命 うかのみたまのみこと
  :塩土老翁命 しおずちのおのみこと
  :猿田彦命 さるたひこのみこと
  :大国主命 おおくにぬしのみこと

鎮座地:宮崎市新別府町前浜一四〇二番地

例祭日:三月十八日

社殿:本殿(神明造)一〇・九坪
  :拝殿(権現造)十九・六坪

境内坪数:六、二〇四坪

創立年月日:第十二代景行天皇の御宇と伝える(七一 ~ 一三〇)

由緒沿革:
 当社は神代のいわゆる ” 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原 ” にご鎮座する神社で、初め江田神社境内の西方にあったのを、貞享年間(一六八四~八八)に当地に移転遷座した。
このころより境内松原に一葉の松を生じ、万民奇異の想いをし、大に崇敬の念に加え、ここにおいて、彼の伊弉諾尊禊祓の聖地なるを以て、また住吉の神、神威を顕されたものと信じ、一葉稲荷大明神、または一葉住吉大明神とも称せられた。

往昔より武門豪族の崇敬厚く、ことに一葉の松生じてより一般の崇敬激増し、元禄二年(一六八九)旧延岡城主有馬左衛門尉永純よりご供田高二石を寄進、同十一年に幕府は勘定奉行今井九郎右衛門をしてご供田二石寄進と、領主領民の崇敬厚き社となった。

明治維新に至り厳然たる社格を治定され、明治三十九年四月二十八日、神饌幣帛料供進の社に指定される。
崇敬者は、県下一円をはじめ、大分・鹿児島・福岡・四国・京阪神地方に及び、そのご神徳は普く世人の周知するところとなり、商売繁盛の祈願でも名高い神社である。

当地方の人々は往昔より毎朔日、また事ある際には ” 浜下り ” と称し、未明に一葉の海浜に出て真砂を探り、心身を清め当社に参拝後、自宅内外を浄め、各々庭内の氏神様の前にこの真砂を捧げおく特殊の習俗がある。











~災害 厄除 開運の白兎の由来~

寛文二年(一六六二)に、西海大地震(外所大地震)に襲われ周辺の神社は津波被害に遭ったが、その時当神社に一匹の白兎が現れ、津波を蹴って救ったと伝えられ、災害からの「守り神」とあがめられてきた。 (白兎の彫刻は本殿裏に有り)







境内・末社 恵比須神社





境内・末社 銭洗神社








参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
一葉稲荷神社公式ウェブサイト:http://www1.bbiq.jp/hitotsubajinja/

2017年2月14日火曜日

瀬頭神社

瀬頭神社 (旧村社)







祭神:伊弉諾命 いざなきのみこと
  :彦火々出見命 ひこほほでみのみこと
  :素戔嗚尊 すさのおのみこと
  :磐長姫命 いわながひめのみこと
  :保食命 うけもちのみこと
  :天穂日命 あめのほひのみこと
  :道真命 みちざねのみこと
  :大年神 おおとしのかみ

鎮座地:宮崎市永楽町八五番地

例祭日:十一月三日

社殿:本殿(流造)  約二・三一坪
  :拝殿(入母造屋) 約四・五坪

境内坪数:一八〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 平安時代、鳥羽天皇の御代永久年間の創建で皇女八幡院璋子殿下の領地であった頃である。
明治元年の石高は一二〇石六五七であった。以前は元恒久村の一字地であり明治九年丙子、別に分れて一村になったと『日向地誌 』は記録している。このようなゆかりの地に鎮守として祀られ、七屋神社と称し別名七屋さんの愛称で親しまれ古くからこの地一帯の人々に篤く崇敬された。
 例祭、春祭、夏祭には神楽舞、相撲、力石だめし等、奉納され賑ひたる由なり。
 元恒久村から一村に別れた年の明治九年十月十八日で村社となり、戦後の改革により現在に到る。

平部嶠南・・・幕末から明治にかけて飫肥藩、明治政府に仕えた学者、及び政治家。明治8年(1875年)に 宮崎県地誌編集係に任命され、県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。明治17年(1884年)に『日向地誌』を完成させ、翌18年に編集功労手当を受ける。 - wikipedia -









境内、本殿南側には宮崎市指定の郷土の名木ムクノキがあります。








また、本殿北側に末社が鎮座しています。(詳細不明)








九百年余りの歴史があると云われるお社ですが、本年(2017年)、拝殿の解体および撤去が決定しています。






2017/4/15追記

拝殿一宇が撤去され、境内が広々としていました。












参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]