八坂神社(跡江・東) (旧無格社)
祭神:天津児屋根命 あまつこやねのみこと
:素盞男命 すさのおのみこと
鎮座地:宮崎県宮崎市跡江一六〇二ノ乙(宮崎県宮崎市跡江2401−1) (凌雲堂[社会福祉法人]特別養護老人ホーム悠楽園近く)
例祭日:十一月十五日
社殿:本殿 六坪
境内坪数:二〇坪
創立年月日:不詳
由緒沿革:不詳
2017/4/15:現在、社殿の建て替え中で祭神は御不在でした。
↓は2016年12月の社殿です。
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
八坂神社(糸原) (旧村社)
祭神:須佐之男之命 すさのおのみこと
鎮座地:宮崎県宮崎市糸原三一九ノ一 (県道17号線を国富方面に向かう途中の有田橋を渡ってすぐ左手)
例祭日:十一月十三日
社殿:本殿(流造) 二坪
:拝殿(切妻造)四坪
境内坪数:四〇坪
創立年月日:不詳
由緒沿革:
創立由緒ははっきりしないが、天和三年(一六八三)熊野三所大鳥尾権現として再興の棟札があった。往古、伊藤氏の建立という(「三国名勝図絵」)-wikipedia。
文政十二年(一八二九)十月十八日再興。
元の社号を祇園神社と称していたが明治のはじめ八坂神社と改称した。
「日向地誌」によると、熊野三所大鳥尾権現は、倉岡神社に合祀されたことになっているが、同時に「八坂神社村社なり」と記述されており、その間に復社されたものとみられる。
社地は昭和九年四月、大淀川改修のため現位置に移転した。昭和二十年四月十二日柳瀬大火の際、類焼したが同年七月仮殿建立、昭和三十年九月に現社殿が新築された。
境内の恵比須神社
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
柏原神社 (旧村社)
祭神:品陀和気命 ほんだわけのみこと - 応神天皇 おうじんてんのう
:玉依姫命 たまよりひめのみこと
:息長帯姫命 おきながたらしひめのみこと - 神功皇后 じんぐうこうごう
鎮座地:宮崎県宮崎市大字柏原八二一番地
例祭日:三月十八日(春神楽)
社殿:本殿(八幡造)九坪
:拝殿(八幡造)十四坪
境内坪数:三一四.八八坪
創立年月日:正和四年(一三一五)八月
由緒沿革:
古記録によれば、正和四年(一三一五)八月、皇紀一九七五台九十五代花園天皇の御代、惟康親王の御時、守護職土持参河守栄嗣が国土治安を祈り豊前国宇佐宮の御分霊を勧請し奉りし神社と伝える。
当時社録を有し社司を置き神意赫々たるものがあったが、爾来幾多星霜を経て、康正年間(一四五五~)以後再三南北兵乱の地となり、ついに社録を失い一時衰頽を極めた。
元禄年間(一六八八~)再興し神意赫々と揚り氏子の崇拝篤く社殿の改築等時々行われ、明治四年(一八七一)十一月八幡宮の称号を改め柏原神社と改称して今日に至る。
御祭神応神天皇は大陸文化の輸入につとめられ機織技術が伝わり「王仁」が「論語」「千字文」を献じたのも御時であったと云われています。
御祭神の御父君は第十四代の仲哀天皇、御母君は神功皇后であります。
神功皇后は仲哀天皇御崩御ののちご懐妊のまま朝鮮半島に遠征なされ百済高句麗を制圧されたといわれています。
その後、応神天皇を御安産になり長年に亘り国事に当られたといわれています。
八幡様は全国に四万社あるといわれていますが、大分県の宇佐神宮がその総本宮であります。
八幡様は国民多数の信仰が厚く弓矢武神の神、学問の神、安産の神として特に有名であります。
社殿裏手、末社 仔細不明
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
吉野若宮神社 (旧村社)
祭神:正哉吾勝々速日天忍穂耳命 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと
:天照皇大神 あまてらすすめおおみかみ
:大己貴命 おおなむちのみこと
鎮座地:宮崎県宮崎市大字吉野一〇八番地
例祭日:十一月十三 日
境内坪数:九畝五分
創立年月日:不詳
由緒沿革:
大字吉野字宮元に鎮座せる村社で祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を正祀とし、天照大神(あまてらすおおかみ)を配祀としてある。
其の創立の如き、或いは天正四年(一五七六)十一月とし或いは年月不詳として記録定まらざる所であるが、伊豆の国の浪人川越数馬重爲(かわごえかづましげため)という者、伊東氏に旧縁あるを以って日州那珂郡に来たり、やがて諸県郡吉野村の地頭となった。
斯くて以前信仰した北山大明神の御分霊を伊豆の国より奉還し、之れを此の吉野村に奉祀し後ち若宮大明神と称して一村の鎮守としたのである。
尋ねて伊東氏都於郡没落後は、川越主殿重郷(かわごえしゅでんしげさと)及び川越太郎右衛門重潔(かわごえたろうえもんしげきよ)、若宮大宮司となったが、
正保三年九月十三日(一六四六)川越十郎右衛門重堯(かわごえじゅうろうえもんしげたか)、神職宮永石見守(みやながいわみのかみ)等社殿を改築し、
享保元年(一七一六)十一月十三日には願主川越清之亟(かわごえせいのじょう)・川越利助(かわごえりすけ)等、
元文四年(一七三九)四月六日祭主田部朝臣(たなべあそん)・宮永石見守(みやながいわみのかみ)、また改築のことあり、
それより天明八年(一七八八)九月十三日には祭主宮永伊豫守(みやながいよのかみ)・鑰取り・緒方外記(おがたげき)、
慶応二年(一八六六)十一月には宮永伊豫守(みやながいよのかみ)・願主吉野村組頭利三郎(りさぶろう)等の名を以っていずれも社殿を改築した。
社殿は明治三十九年(一九〇六)若宮神社境内末社(旧字宮元)に勧請し八坂神社・菅原神社・大将軍神社・大土神社が合祀されている。
その後、昭和二十九年(一九五四)十二月に改築したが永い年月の風雨による破損の為、平成二十六年(二〇一四)に新たに造営となった。
境内末社 八坂神社・菅原神社・大将軍神社・大土神社
境内 水神様
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
富吉神社 (旧村社)
祭神:誉田別尊 ほんだわけのみこと - 応神天皇 おうじんてんのう
:息長帯姫命 おきながたらしひめのみこと - 神扐皇后 じんぐうこうごう
:足仲彦尊 たらしなかつひこのみこと - 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう
鎮座地:宮崎県宮崎市大字富吉四八九八の一番地
例祭日:十一月十五日
社殿:本殿(八幡造) 二.五坪
:拝殿 一八坪
境内坪数:二、〇八七坪
創立年月日:久安四年(一一四八)
由緒沿革:
当社は、八幡宮の本宮である宇佐神宮のご分霊を勧請したもので、富吉村の産土神として祀られてきたと伝える。
文安四年(一四四七)には、領主藤原(伊東)第十一代当主祐堯公により社殿造営。
文明十年(一四七八)には時の領主牧野越中守により社殿の造営が行われている。
さらに慶長五年(一六〇〇)、元文二年(一七三七)、文政十年(一八二七)にも社殿の造営が行われ、明治二十四年に半年の期間を要してご造営されている。
現在の社殿は平成十二年に造営されたものである。
明治四年十一月村社に列格、同三十九年四月神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。
大正三年頃まで十一月頃に流鏑馬が行われていた。現在、水流地区に[躍蚕馬場]と地名が残る。
皇后は武運に優れた方で仲哀天皇御崩御の御懐妊のまま朝鮮半島に遠征され百済、新羅を制圧されたと言われています。
その後、応神天皇を御安産になり長年に至り国事に当たられ百歳の長寿を全うされた、と言われています。
八幡様は全国に四万社あると言われていますが、大分県宇佐神宮がその総本山であります。
八幡様は国民打数の信仰厚く弓、矢、武神の神、学問の神、安産の神として特に有名であります。
御神木 幹廻:三.七M
樹令:一六〇年
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
広原神社 (旧村社)
祭神:大国主命 おおくにぬしのみこと
:少彦名命 すくなひこなのみこと
:手力男命 たじからおのみこと
:倉稲魂命 うかのみたまのみこと
鎮座地:宮崎県宮崎市大字広原五八三二番地
例祭日:十一月三日(本来は十一月十五日)
社殿:本殿(流造) 一.五坪
:拝殿(入母屋造)十二坪
境内坪数:六四〇.三八坪
創立年月日:不詳
由緒沿革:
創建年代は明らかでないが、別当寺である極楽寺(現在は廃寺)の創建が鎌倉時代と考えられるので、その頃に極楽寺鎮護の社として建立されたものであろう。
明治維新以前は山王社と呼ばれ、今も氏子等は山王様と称している。
江戸時代以降、広原村の総鎮守の社となり、明治二十二年芳士、広原、島之内、新名爪、塩路の旧五ヵ村が合併して住吉村が成立してからは、大字広原の鎮守の社として地区民の尊崇をあつめてきた。明治二年に村社になる。
もとの鎮座地は、今の極楽寺地区の西、およそ三百メートルの所にあったが、余りにも不便な為、明治四十五年現在地に遷座された。
その為、境内にあった手力男神社も本社に合祀されて今日に至っている。末社に三野大明神(通称、寺大明神)がある。
本殿は昭和四十九年十一月、拝殿は昭和三十一年十二月、参道の階段は昭和四十年十一月に新設されたものである。
旧版略記
↓書き起こし文
--------------------------------------------------------------------------------------------------
廣原神社略記
江戸時代までは山王権現、または山王社
と称したが、明治二年に廣原神社と改称し
た。創建年代は極楽寺の創建と同じく鎌倉
時代にこの村の鎮護の社として祀られたもの
であろう。明治四十五年六月十一日に大字
広原字宮の下(通称鳥の迫)より現在地に
遷座され今日に至っている。
本殿は昭和四十九年十一月、拝殿は昭和
三十一年十二月、手水舎は昭和六十三年
六月に改築、参道の階段は昭和四十年十一
月に新設されたものである。
神楽 約三百年位前から春秋の社日、祭
典日に奉納され今日も続いている
ご神幸祭 大正七、八年頃浜下りが始ま
り、途中とだえたが昭和二十六年
に復活し、現在三年に一度の浜下
りがあり帰り路に羽佐間周辺で
神楽を奉納している。
平成十年八月 記ス
--------------------------------------------------------------------------------------------------
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
加江田神社 (旧郷社)
祭神:天照大御神 あまてらすおおみかみ
:伊弉諾命 いざなぎのみこと
:伊弉美命 いざなみのみこと
鎮座地:宮崎県宮崎市学園木花台桜一ノ二九ノ四
例祭日:三月三日
社殿:本殿(神明造) 五.八坪
:拝殿(流造)二〇.四七坪
~寛政十一年(一七九九)造営、飫肥藩伊東家寄進
境内坪数:九八〇坪
創立年月日:不詳
由緒沿革:
伊弉諾大神が檍原で禊された所として、元加江田村字中原という所に鎮座された。
寛文二年(一六六二)の大地震の時、海辺の一村は沈み、田畑高八五〇〇石が損失し、その他末社斟鉢神社(斟鉢山山頂付近)の社領も海に没した。
その時河野某なる者、ご神体を泥海の中から辛うじて奉り、字仮神という所に小社を過構えた。
寛文十二年(一六七二)九月十八日字丈之馬場へ遷し奉った。
寛政十一年(一七九九)九月二十九日ご殿並びに舞殿等を再興する。
此社は往古より加江田伊勢神明宮と称し、日向国旧社の一社である。
ことに皇室の大祖たる天照大神ご出生の霊蹟と云い伝えられ維新の際加江田神社と改称、郷社に列せられる。
維新以前は、飫肥藩崇敬社としてご神殿、祭具等伊東家のご紋を彫刻され、毎年二、六、九月の例祭には領主自ら参拝された。
祭典時には神事料、玄米弐石弐斗八升を下賜されたと伝えられている。
天照大神が上古天の長田狭田に御田作られし古事に準じ、毎年三月の例祭には社人牛を用いて田作りをする。
その時松葉を苗として植える。
里人は祭典修めを待ち其の苗を申し受け我が家の守り神として謹んで拝するのである。
境内に末社斟鉢神社の遙拝所があります。
境内末社 福智神社
境内末社 御年神社
奉納碑
↓書き起こし文
--------------------------------------------------------------------------------------------------
奉納碑
当神社は、寛文二年(一六六二)の外
所大地震により水没した為、加江田元伊勢
から高台の当地に移転してきた。その後、
平成五年の台風で鳥居の倒壊を初め、境内
各所に大きな被害を受けた。
その為、大地震から三百五十年にあた
る平成二十四年までに、元伊勢の風格にふ
さわしい本来の荘厳な姿を甦らせたいと整
備を進めてきた。平成二十一年には、天皇
陛下御即位二十年及び本殿再興二百十年を
記念し、社殿周囲の石垣積み等の大造営を
行った。また、最終整備として神社正面右
手と大楠を囲む石垣上に玉垣を、更に境内
に灯籠を設けようと計画準備していた。
ところが、平成二十三年一月二十六日霧
島新燃岳の大噴火、同年三月十一日東日本
大震災と未曾有の大災害に見舞われた。天変
地異は日本列島の宿命ながら、当神社の氏
子崇敬者の神に対する畏敬の念更に強く、
社会情勢の厳しい中一致団結して、灯籠二
十四基、玉垣八十基を寄進し、この造営事
業を無事完成させた。
天地悠久の大道である神道を以て、神職
氏子崇敬者一同、神のみこともちとして国
の復興、隆昌、世界の共存共栄を祈り奉納
するものである。
平成二十四年二月二十四日
--------------------------------------------------------------------------------------------------
伊勢神楽
毎年三月三日の春の例大祭で五穀豊穣を祈願して舞われています。
一時は舞手が一人になってしまい廃絶の危機にありましたが、平成十九年から地元の子供たちへの指導にあたるなど継承に努め、平成二十五年十月十五日には伊勢の式年遷宮で奉納されました。
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]