祭神:彦火々出見命 ひこほほでみのみこと
:豊玉姫命 とよたまひめのみこと
:景行天皇 けいこうてんのう
鎮座地:宮崎県宮崎市村角町橘尊一九七五番地
例祭日:十一月十日
社殿:本殿(流造)六坪
:拝殿(入母屋造)十五坪
境内坪数:一,〇五六.三坪
創立年月日:不詳
由緒沿革:
創建は、古老の伝えるところによれば、一〇七代後陽成天皇慶長十六年(一六一一)社殿改造の棟木あり、また、仁明天皇嘉祥二年(八四九)当宮の祠官となった旧社家の系図があることから、その古いことがうかがえる。
当社西方の小高い処は、彦火々出見命の山陵と言い伝え、『日本書紀』にいう「日向の高屋の小陵に葬る」とあるのは当地であると伝える。
また、景行天皇が六年間ご駐輦された高屋行宮址とも伝えている。このことは「日向五郡八院旧元集」に、「景行天皇が十一月日向の国に到り行宮を起こしてここに居たまう。これを高屋宮という。武内宿祢、彦火々出見命の山陵を知り、そこで御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である。」と書かれている。
山陵付近には命にちなむ地名が残っている。
竹園(たけぞん)は、命のご降誕の時その臍の緒を切った竹刀を投げた所と伝える。
袍ノ園(いやんそん)は、命の臍の緒を切った所と伝える。
安園(やすぞん)は、命のご降誕の地と伝える。
その他、天神川・御手洗川、犬ヶ城等の地名が残っている。
当社はもともと高野(高屋)八幡宮と称していたが、宝暦時代以降高屋宮と称するようになり、明治になって高屋神社と称し現在に至る。
↓書き起こし文
--------------------------------------------------------------------------------------------------
高屋神社
宮崎市村角町字橘尊一九七五
祭神 彦火々出見命景行天皇
豊玉姫命
神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇八代後陽成天皇の御宇慶長十六年(紀元二二七三年)に社殿の改造の棟木あり、又神官の系図により仁明天皇の嘉祥二年(紀元一五〇九年)に神官となりし事記載あり。このことによって、その由緒が伺える。
更に神社の西方に小高き處あり、彦火々出見命の山稜と言伝う。即ち日本記に言う日向の高屋の山稜に葬るとあるは、即ち是なり。
鵜戸山寺建立並びに再興年代綠に景行天皇筑紫に座すこと四ケ年日向宮崎郡村角と言う處、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋と言う神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇が、この高屋の宮を定めて、功臣武内宿称をして、彦火々出見命の山陵を定めて鎮祭し、高屋八幡宮と言う記録がある。
右御陵より約五十米北方に母場御前と言う處あり、そこは火々出見命御降誕の時、竹刀で臍の緒を切った後、其の竹刀を投ぜ給ひし處で、中古迄は其の辺に孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治八年十二月開墾して、村役詰所の家屋を新築せり。
北西の約百米隔てて、字安尊と言う處あり、火々出見命御降誕あらせ給いし所と言い伝う東の方五十米程隔てて胞之尊と言う處あり、火々出見命の御胞を納め奉りし所と言い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は、御奉納所と申し奉りて奉幣する處あり。
又、天神川、御手洗川という川あり、天神川は火々出見命に献る御飯を炊きし處と言い伝えて村民此の川上の水口にて手足を洗うことなし。御手川は、天神川の下流で同命御降誕のとき鹿葺津比賣命が、臍の緒を切って御手を洗い給いし處と言い伝う。
右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと稱するところがある。
祭典の日 神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。
此の所は仮の皇居と言い、又、当宮を西方へ六〇〇米の處に犬ヶ城と言う處あり、狗人の住み給う處なり、即ち火酢芹命の旧地と言い伝えられる。
例祭十一月二十三日
--------------------------------------------------------------------------------------------------
境内社 若宮神社
また、境内参道周辺には、近隣より集め合祀されたと思われる、弘法大師像、猿田彦大明神などの石仏などが祀られています。
高屋神社神楽 平成二十八年三月指定宮崎市無形民俗文化財
三月 社日祭
春神楽は村角神楽と呼ばれ、五穀豊穣や厄祓を祈念して舞われる。
当日は三十三番の演目のうち十八番が奉納される。
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
0 件のコメント:
コメントを投稿