2017年5月27日土曜日

岩ヶ瀬水神神社

岩ヶ瀬水神神社







祭神:速秋津姫命 はやあきつひめのみこと
  :宇迦之御魂神 うかのみたまのかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市吾妻町一〇九

例祭日:七月

社殿:本殿(流造)一坪
  :拝殿(流造)三坪

境内坪数:九七.六一坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 大淀川の下流左岸に鎮座。この地はいわゆる「橘の小戸の阿波岐原」(古事記)の伝説地である。

古くは大淀川の入江に近く、社殿の裏まで川が入り込み、この水を引いて一帯の水田に灌漑したと言い、その水口に祀られていた水神であるため岩ヶ瀬水神と称え、船主等の崇敬の神であった。

昭和四十七年(一九七二)には海上自衛隊の護衛艦「いわせ」に当神社の御祭神を分神として艦の守護神として祀られている。








境内末社 橘稲荷大明神・水神宮














参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

新名爪八幡宮

新名爪八幡宮 (旧郷社)





祭神:誉田別命 ほむだわけのみこと
  :玉依姫命 たまよりひめのみこと
  :息長足姫命 おきながたらしひめのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市大字新名爪字四四四九番地(宮崎県宮崎市新名爪4449

例祭日:十一月十五 日

社殿:本殿(流八幡造)六坪
  :拝殿(入母屋造)十六坪

境内坪数:一、〇三〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 第八十一代安徳天皇の養和年中(一一八一~八二)この地に創建したもので、社伝によれば、豊前領主土持冠者左衛門景綱が日向の地頭の時、宇佐八幡宮の分霊を勧請したと伝える。
土持八幡宮、または単に八幡宮と称していた。
宇佐八幡宮新名爪別府については、『宇佐大鏡』によれば、治暦二年(一〇六六)とあることから、当時新名爪の鎮守として勧請したと思われる。

明治二年郷社となり、新名爪神社と改称したが、昭和四十八年旧称の新名爪八幡宮に戻し現在に至っている。






境内末社 左、若宮神社 右、一之宮神社・宮本神社 






また、室町時代の作といわれる舞楽面「陵王」(縦三十糎、横十八、鼻の高さ十三.五)が伝えられており、宮崎市指定の有形文化財に指定されている。

舞楽面は全国に散在しているが、中でも陵王の面は九州地方では、福岡県観世音寺、大分県宇佐八幡宮と、新名爪八幡宮に限られており、本面は豊後宇佐八幡宮の関係において存在し、その南限と思われる。
また、新名爪八幡宮の氏子にとっては、不老面(年をとらない面)と呼んで崇敬厚く、一方では恐怖感をいだきながら権威ある面として信じられ保存されてきたことは、文化的、民俗学的に意義あるものである。










参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

加納神社

加納神社 (旧村社)






祭神:大日孁貴尊 おおひるめのむちのみこと
  :正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと
  :天津彦彦火瓊々杵尊 あまつひこひこほほのににぎのみこと
  :伊東祐堯公 いとうすけたかこう

鎮座地:宮崎県宮崎郡巨武町大字加納乙二五三(宮崎県宮崎市清武町加納乙253)

例祭日:十月十七日

社殿:本殿(破風造)二坪
  :拝殿(入母屋造)九坪

境内坪数:四一六坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 加納地区にて毎年虫害を被ったので虫除神社を建立しようとして当社を建てたところ、翌年から虫がつかず、豊年が続いたので、福の八幡と言ったという話が伝えられているが、三宅村(西都市)の福野八幡宮(三宅神社 [MAP] )を勧請したものと思われる。
創建年代不詳なるも明暦二年(一六五六)九月福の八幡宮再興とあるので、それ以前の創建と思われる。

当社は福の八幡宮と称したが、明治維新の際加納神社と改称し村社に列せられる。
藩主伊東家の崇敬厚く、参勤交代の際は領地最後の社として参拝され、海陸途中の武運長久を祈願した。
その時境内東側に休憩所を設けお茶を供じた。今も其の所を茶屋場と称している。
帰国の際も参拝され、無事帰国の報告をし、その都度清武藩士は此の処にて奉送迎をしたという。

昭和十年七月二日告示第三五三号をもって神饌幣帛料の指定を受く。
なお明治十年七月西南の役にて社殿を破壊され古文書等盗まれたとある。











加納神社境内社 [MAP]


愛宕神社 左殿
祭神:火産霊命 ほむすびのみこと

大将軍神社 右殿
祭神:磐長姫命 いわながひめのみこと

また、本殿内中央には奉鎮祭の棟札があり、上棟式の祭神として、

手置帆負命 たおきほおいのみこと・工匠の守護神
屋船久久能知命 やふねくくのちのみこと・家屋の守護神
屋船豊受姫命 やふねとようけひめのみこと・家屋の守護神
彦狭知命 ひこさしりのみこと・工匠の守護神


がお祀りされており、
その他多くのお地蔵様や観音様、正一位稲荷神社の棟札などが安置されています。






参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年5月22日月曜日

皇宮神社

皇宮神社 宮崎神宮 元宮






祭神
 正殿:神日本磐余彦天皇 神武天皇 かむやまといわれひこのすめらみこと

 相殿:手研耳命 てぎしみみのみこと
   :吾平津姫命 あひらつひめのみこと
   :渟名川耳命 ぬなかわみみのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市下北方町横小路五八八一番地二

例祭日:十月二十七日

社殿:本殿(神明造)

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 皇宮神社は今の宮崎神宮の地に宮居なされる以前の宮居の地か、或は行宮の跡であったのではなかろうかと思われます。
仰げば西方遥か高千穂の峰を望み、目を下に転ずれば大淀川の清流延々として帯の如く市街地を縫い、実に皇居跡に相応しい聖地であります。
ご創建は不詳ですが、旧社殿は弘化四年(1847)六月藩費を以て再建され、明治十年(1877)三月二十一日宮崎神宮摂社に列せられています。
現在の社殿は昭和四十八年の伊勢神宮の第六十回神宮式年遷宮後、古殿舎撤下材(外宮下弊殿)を、昭和五十一年(1976)にご改築したものです。
同七月二十四日夜八時より遷座祭が斎行されました。










改築前宮跡 [MAP]






昭和十年(一九三五)十一月十四日の特別演習の折には、昭和天皇のご巡覧がありました。また昭和十五年(一九四〇)の紀元二千六百年の記念事業の一環として、宮崎県奉祝会により皇軍発祥之地碑が建立されて顕彰されました。











参考:略記 宮崎神宮
宮崎神宮公式ウェブサイト:http://miyazakijingu.jp/

2017年5月21日日曜日

今泉神社

今泉神社 (旧村社)






祭神:天御中主神 あめのみなかぬしのかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市清武町今泉丙一五二五番地

例祭日:十月十七日

社殿:本殿(流造)十六坪
  :拝殿(流造) 四坪

境内坪数:一、四八〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 創建はつまびらかではないが、口伝えによると、神代の昔、天御中主神が清武町円目岳に降臨したことにより当地に祀ったと伝える。
後陽成天皇の慶長十一年(一六〇六)十月七日、すなわち領主藤原朝臣祐慶(第二代飫肥藩主)の時に、大宮司川越源八郎は円目岳が険阻にして参拝に不便であったため、領主の命により現在地に移したという。
 現在の社殿は平成九年に建て替えられたものである。












境内末社 正一位稲荷大明神






脇社 左殿






脇社 右殿







なお今泉神社については次のような社伝がある。

 清武村の今泉を流れて清武川の上使橋付近に落ちる支流を水無川という。

 小春日和のある日、今泉の里の婆さんが水無川で塩漬けにする大根を山と積んで洗っていた。
その時川下から土手をつたって、白衣の老人が杖を便りに歩いて来た。
老人は足を止めて、「私にその大根を一本恵んで下され。」といった。
人声に驚いて後を振り向いた婆さんは「これは漬物にするので、人にやる為に作ったのではない。」と無愛想に答えた。
老人は「その小さいのでもよい。」といって婆さんの足もとに転がっているのを指した。
そして「私は三日三晩何も食わずにいる。」と付け足した。
しかし婆さんは「自業自得だ、私の知ったことではない。」と言いながらごしごしと大根を洗っていた。
「この水が無くなっても宜しいか。」と老人が怒り気味でいったが婆さんはとり合わなかった。

 老人は木のこんもりと茂っている処へ辿りつき、何か口の中で唱えながら、川の中に自分の枝に突きさした。川底に穴が空いて水はどんどん地下にしみこんでしまった。
「これが報いだ。」老人はこういって川上へ歩いていった。

 清武村の西南に一際目立って高い円目山がある。その山の南側に妙見様が祀ってあった。
清武村、特にその今泉の人達は深く信仰していて、夏の日照りの雨乞いには必ずここにお祈りした。
しかしその人々の中に塩の漬物を持っていくものがあったら、その人は必ず腹痛を起こして一人ではとても下山が出来ない程になる。

そこでいつしか「あの川の水を無くしたのは妙見様だろう。」と言い伝えるようになった。
そして「あんな辺鄙な山奥に祀ったのではもったいない」といい、今泉の人達が主となって地区から五、六町の西南方に神社を建てて祀ることになった。

これが今の今泉神社で、付近の農民の崇拝の的となっている。








参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

炎尾神社

炎尾神社 (旧無格社)






祭神:天津彦火瓊々杵命 あまつひこほほのににぎのみこと
  :豊玉姫命 とよたまひめのみこと
  :木花開耶姫命 このはなさくやひめのみこと
  :彦火火出見命 ひこほほでみのみこと
  :鸕鷀草葺不合命 うがやふきあえずのみこと
  :玉依姫尊 たまよりひめのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市清武町船引一五〇八ノ二

例祭日:十月十七日

社殿:本殿(流造)   三坪
  :拝殿(入母屋造)六.一坪

境内坪数:一九二坪

創立年月日:承和十年(八四三)九月十五日

由緒沿革:
 当社は仁明天皇の御代、承和十年(八四三)九月の勧請で、炎尾六社大権現と称し、崇敬者の信仰厚く、殊に幕府より供田として水田四反歩を寄付して耕作させ、例祭には庄屋に代拝させ荘厳なる祭典を挙行されたと云う。

当社の特種神事として毎年正月元旦に、当社に供えてある神酒の瓶の酒の色合及び量の増減に依って、その年の農作物の豊凶を判定する御神酒試しの神事は、現在も斎行されている。
この神酒は、毎年当家にて自家製のニゴリ酒を作り、秋の例祭日に長さ十三糎、高さ七.五糎の横べという須恵器に補給し神殿に供えておくものである。


また、ご本殿は創建から長い年月を経たものと見られ、史跡保護の観点から覆屋が建築されている。












参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

船引神社

船引神社 (旧村社)






祭神:足仲彦尊 たらしなかつひこのみこと
  :譽田別尊 ほんだわけのみこと
  :息長足姫尊 おきながたらしひめのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市清武町船引六六二二番地

例祭日:十月十七日

社殿:本殿(流造)     六坪
  :拝殿(入母屋造)十七.二坪

境内坪数:七八九坪

創立年月日:寛治元年(一〇八七丁卯九月十五日

由緒沿革:
 堀河天皇の御代、寛治元年一〇八七)九月十五日の創建と伝えられ、当初は正八幡大神と称した。東海道相模国湯井郷の鎌倉八幡宮の霊神を祀る。

当社の棟札によると、社殿の造営は次のとおりである。

天文十七年)戊申十二月十三日大檀那大夫従四位下藤原義祐朝臣の御代大宮司多田義行の時社殿再興
承応三年)申午十一月二十五日領主有馬左衛門藤原朝臣永純公の御代大宮司落合藤左衛門包行の時に社殿再興
享保十二年)十月判大宮司落合丹波守包知の時社殿再興
宝暦元丙子年二月大宮司落合丹波守包清の時拝殿再興
文政十三)庚寅年九月神輿寄進三基
天保八)丁酉年十二月大宮司落合菊太郎の時石鳥居建設
嘉永三)庚戌年九月十四日大宮司落合豊吉の時拝殿再興(現在のもの)
嘉永六()癸巳年十一月大宮司落合豊吉神殿再興(現在のもの)
明治十四年()巳年十二月祠掌長友光弥の時拝殿瓦葺となす。
昭和九年(一九三四)申戊六月社掌落合宮次郎、長友伊豆男の時神社鎮座八百五十年記念に境内玉垣建設並びに手水鉢に水道布設す
同四十九年(一九七四)本殿拝殿改築工事施工
同五十一年(一九七六)神池改修工事施工、十二月二十七日石鳥居建設奉献
同五十三年(一九七八)十月一日船引神社神楽保存会結成
同五十九年(一九八四)六月三日鉄筋コンクリート銅巻鳥居建設
同六十一年(一九八六)五月拝殿改修







人皇第五十六代帝清和天皇之六男貞純親王始而賜源姓而四
品任上野大守其嫡男基経親王之第六子称六孫王正四位下任
摂津守兼筑前介貞観十八年十月八日其嫡男満仲正四位下左
馬頭鎮守府将軍任之寛和三年出家謂多田新発意其裔孫多田
任畠山庄司修理亮為鎮西筑紫日向下向也東海道相模国湯井
郷鎌倉八幡宮之垂跡也事者天長地久諸願円満萬民豊榮五穀

成就之霊紳也




境内末社






国指定天然記念物 「清武の大クス」 指定年月日 昭和二十六年六月九日


当社境内には、国指定天然記念物(昭和二十六年六月九日指定)の大クスがあり、通称を八幡クスと呼ばれている。
高さ三十五米、根回り十八米、目通り幹回り十二、三米の大木で、樹齢約九百年と推定される。
地上二米のところで東の方に一つの大枝を出し、その先は枯れて穴があいてる。
主幹は高さ五米で二つの支幹に分かれ、両支幹とも多数の枝を出してよく茂り、枝張りは東西三十三米、南北三十七米にも及ぶ。
主幹の西側には人が出入できる程度の大きな孔口があり、その内部は地上八米くらいまで空洞になっていて、底は八畳敷ばかりの広さがある。なおこの空洞は東の大枝の開口部に続いている。大東亜戦争中はこの空洞を防空壕代わりに利用していたという。

幹にはキズタ、テイカカズラ、カタヒバ、ノキシノブなどが着生して樹齢の古さをしのばせる。
また境内のシイの根元には、珍奇な植物といわれるヤッコウソウも群生している。








船引神楽

江戸時代中期には既に独立した「船引神楽」として定着したと伝えられ、古来、春分の日に五穀豊穣と子孫繁栄を祈願して奉納されています。里神楽であり日中に舞われ、一番太鼓や笛の調子が違うのが特徴です。






参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

宮崎八幡宮

宮崎八幡宮 (旧郷社)






祭神:誉田別命 ほんだわけのみこと - 應神天皇 おうじんてんのう
  :足仲彦命 たらしなかつひこのみこと - 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう
  :息長足姫命 おきながたらしひめのみこと - 神功皇后 じんぐうこうごう  
  :伊邪那岐命 いざなぎのみこと  
  :伊邪那美命 いざなみのみこと  
  :橘大神 たちばなのおおかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市宮田町三ノ二七

例祭日:十月十五日

社殿:本殿(流造)六坪
  :拝殿(権現造)六十六坪

境内坪数:二、五〇〇坪

創立年月日:永承年中(一〇五〇)頃

由緒沿革:
 当社は今より千年前の永承年中一〇四六一〇五三この地方の開拓にあたった海為隆(国司)がこの地にそれ以前よりお祀りしていた橘大神とともに宇佐八幡宮をこの地に勧請して祀り、この地方を開拓したものである。

鎌倉時代に記された『建久図田帳』、『宇佐大鏡』などの古文書にも、その頃の地名として、渡別府(わたりのべっぷ)と記され、その頃の様子がいくぶんわかる。
当宮も、渡別府八幡、宇佐八幡、八幡宮等の名称で親しまれていたことは、当宮に残る社宝の棟札からも判明される。

それより時代とともに、内藤の諸侯、領主をはじめ、宮崎郷の中心として信仰され、宮崎の氏神として「八幡さま」の愛称とともに、人々に崇敬されてきた。
江戸末期から明治五年にかけては、この地に私塾(開設杉田千蔭)があり、宮崎小学校はそれを母体に開設された。

当宮は明治時代からは、八幡神社と称したが、その後の発展にともない、昭和四十三年(一九六八)十二月より宮崎八幡宮と改称し、つづいて境域の拡張、整備が行われ、昭和五十三年(一九七八)十月にはご社殿、神門、拝殿のご造営の竣工を見、つづいて昭和五十六年(一九八、参集殿の竣工をなし、武勇の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けている。

なお特殊神事として、夏祭り(七月末日)、どんど焼(一月十四日)神事などがあり、多くの参拝者を集めている。







一ノ鳥居先の神門の上部には、それぞれ外側に「萬世泰平」、内側に「神徳教仰」の額があります。





境内末社 稲荷社







境内 水神塔 等








大鳥居より外 北十米程 旧跡案内板






また、年末年始の時期には尊崇される氏子企業等からの奉納品が境内にも多くありました。
下記は大鳥居前に置かれた「川越酒造場(国富町)」奉納の朱樽です。











参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]