2017年5月21日日曜日

宮崎八幡宮

宮崎八幡宮 (旧郷社)






祭神:誉田別命 ほんだわけのみこと - 應神天皇 おうじんてんのう
  :足仲彦命 たらしなかつひこのみこと - 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう
  :息長足姫命 おきながたらしひめのみこと - 神功皇后 じんぐうこうごう  
  :伊邪那岐命 いざなぎのみこと  
  :伊邪那美命 いざなみのみこと  
  :橘大神 たちばなのおおかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市宮田町三ノ二七

例祭日:十月十五日

社殿:本殿(流造)六坪
  :拝殿(権現造)六十六坪

境内坪数:二、五〇〇坪

創立年月日:永承年中(一〇五〇)頃

由緒沿革:
 当社は今より千年前の永承年中一〇四六一〇五三この地方の開拓にあたった海為隆(国司)がこの地にそれ以前よりお祀りしていた橘大神とともに宇佐八幡宮をこの地に勧請して祀り、この地方を開拓したものである。

鎌倉時代に記された『建久図田帳』、『宇佐大鏡』などの古文書にも、その頃の地名として、渡別府(わたりのべっぷ)と記され、その頃の様子がいくぶんわかる。
当宮も、渡別府八幡、宇佐八幡、八幡宮等の名称で親しまれていたことは、当宮に残る社宝の棟札からも判明される。

それより時代とともに、内藤の諸侯、領主をはじめ、宮崎郷の中心として信仰され、宮崎の氏神として「八幡さま」の愛称とともに、人々に崇敬されてきた。
江戸末期から明治五年にかけては、この地に私塾(開設杉田千蔭)があり、宮崎小学校はそれを母体に開設された。

当宮は明治時代からは、八幡神社と称したが、その後の発展にともない、昭和四十三年(一九六八)十二月より宮崎八幡宮と改称し、つづいて境域の拡張、整備が行われ、昭和五十三年(一九七八)十月にはご社殿、神門、拝殿のご造営の竣工を見、つづいて昭和五十六年(一九八、参集殿の竣工をなし、武勇の神、安産の神、学問の神、商工の神として、多くの崇敬を受けている。

なお特殊神事として、夏祭り(七月末日)、どんど焼(一月十四日)神事などがあり、多くの参拝者を集めている。







一ノ鳥居先の神門の上部には、それぞれ外側に「萬世泰平」、内側に「神徳教仰」の額があります。





境内末社 稲荷社







境内 水神塔 等








大鳥居より外 北十米程 旧跡案内板






また、年末年始の時期には尊崇される氏子企業等からの奉納品が境内にも多くありました。
下記は大鳥居前に置かれた「川越酒造場(国富町)」奉納の朱樽です。











参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

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