宮崎市、旧佐土原町内には、旧町教育委員会が設置した観光のための史跡名勝の陶器案内板が三十ヵ所にわたって点在します。その陶板をご紹介します。
佐土原陶板マップ一覧 [MAP]
巨田神楽は、巨田神社に古くから伝わる神楽で、神楽面や大太鼓などの紀年名から慶長年間(1600年頃)には舞われていたようです。
毎年、秋の例祭日には巨田神社の境内で三十三番が奉納され、町内外の見学者は、その太古の神々の神聖な世界に引き込まれ、厳かな秋の一日に浸っています。
この神楽は、哀愁を帯びた旋律と軽快なリズムを横笛と太鼓で表現し、他所の神楽とは違った独特の趣を有しているという特徴があります。
巨田神社本殿と棟札22枚 昭和五十三年国指定重要文化財 [MAP]
天長八年(831)の鎮座と伝えられ、誉田別尊(応神天皇)及び住吉四社の神を奉祀してある。本殿は、「三間社殿造り」で、文安五年(1448年)に上棟修造され、さらに昭和五十六年の修復によって、室町時代の神社建築様式をそのまま残している南九州にも数少なく、県下では唯一の社殿である。神社には中世から江戸期までの棟札が22枚残り、この棟札によって修造と二度の再興を経たことの事実が証明される。
また、本殿両側の摂社(向かって右側今宮社、左側若宮社)は県指定文化財(昭和58年指定)で棟札から本殿と同時期の建立と考えることができる。
ご社殿前斎庭左側には、元禄十二年(1699)五月二十八日、城主島津惟久公祈願成就のため奉納した石燈籠一基が現存している。
巨田の大池とそれを囲む丘陵地は四百年以前から越網の猟場として受け継がれ、現在石川県片野と巨田のみに残る貴重な古式狩猟地である。
渡鳥の季節、昼間池を埋めた鴨は日の入りに飛び立って、餌場は、日の出とともに休息池に帰り羽を休める。この時、池を囲む丘陵の上すれすれの高度で丘を越す。この習性を利用してここの位置からも見える様な丘の上の立木を切り鴨の通る道(越、坪)を開く。鴨の出入りは日の出、日没の20分前後と定まっている。この時坪にかくれて越網を構え、矢の様な速さで通る鴨の鼻先きに投げかける。網の目に首を突込んだ鴨は網とともに落下してくる。瞬間に鴨の飛翔方向、高低、速度、不測の方向転換などの予測判断を行い、網投げ上げ時期を決定することは各種運動競技の呼吸に合致するものであり、当然熟練した技法が要求される。
江戸期は藩の猟場として許可された者のみが坪に立つことを許され身心鍛錬の一つとして受け継がれ、現在に至っている。
佐野原神社 [MAP]
佐野原聖地は神代の昔鸕鶿草葺不合尊が都於郡から宮居を遷されて天下を治められた所で、尊は玉依姫命をお后にお迎えになり、この地で佐野尊(のちの神武天皇)がお生まれになったと伝えられています。
中世以後佐土原を領した伊東氏、島津氏は、皇祖を奉祀する神社をこの聖地に建立し、崇敬の誠を尽くしてきましたが、明治二年(1869)に佐土原城を広瀬へ移転した際に巨田神社に合祀されることになりました。
その後、郷土史家の研究と努力が実を結び、昭和九年(1934)に佐野原聖地保存顕彰会が設立され、昭和三十五年(1960)、九十年ぶりに佐野原神社を再建造営して、巨田神社から御神霊をお迎えし祀り奉りました。
爾来、例祭は毎年十月初めに行われます。
高月院の由来 宗派 浄土宗 本尊 阿弥陀如来 名称 大池山青蓮寺高月院 [MAP]
佐土原藩初代以久公は、戦国騒乱の世を勇猛な武将として生き抜いてきた武人でした。晩年伏見に在住したとき、京都大雲院の開山、貞安上人の導きによって心の安定を得られた。のちに浄土宗門の戒を受けて剃髪、「わが子孫長く大雲院の檀那となり、上人の遺法を護らしめん」と上人に約定されたといわれています。
慶長十五年(1610)公は伏見で逝去され、上人の引導によって大雲院に葬られ「高月院殿照誉崇恕大居士」と授与されました。
二代忠興公は亡父供養のため上人を開山和尚として、佐土原の現在地に寺院を建立。父の号をとって高月院と命名、御廟所と仏間を設け、佐土原島津家の菩提寺とされました。(開山貞安上人伝 高月院蔵より)
初代公の約定はそのまま生かされ、当院と大雲院に対する藩の尊崇は非常に厚く、参勤の行き帰りには必ず参詣する習わしになっていました。
文化九年(1812)当院は火災によって全焼、古記録や宝物を焼失したが、藩の手によって直ちに再建され、その壮大な姿は当院の絵図に残されています。
明治の初め、廃仏の嵐の中で当院は「一宗派一寺院を残す」の令によって、浄土宗の中心寺院として昔の面影のまま、被害を受けずに残り現在に至っています。
豊烈曜後之碑 [MAP]
戊辰の役に於ける佐土原隊の本隊は、京都四条の大雲院におかれた。明治元年(1868)十二月、奥羽北越の戦いが終わり、佐土原隊は大雲院に引き上げ、この碑を境内に建立し盛大な慰霊祭を催した。
碑文には戦いの日・戦場名と戦死者名が記録され、戊辰の役を戦い抜いた佐土原隊を物語る石塔である。
佐土原神社 [MAP]
祭神
佐土原藩初代以久公から藩最終十代忠寛公までの歴代藩主をお祀りしてあります。
御祭神
嶋津彦以久主命 寄津彦忠興主命
建津彦久雄主命 浩津彦忠高主命
國津彦忠微主命 興津彦忠雄主命
常津彦久柄主命 豊津彦忠持主命
足津彦惟久主命 鷹津彦忠寛主命
創建 明治三十四年(1901)当時佐土原藩十ヵ町村といわれた都於郡・三納・三財・
新田・富田・広瀬・住吉・那珂・佐土原・妻の旧藩民の手で建立されました。
例祭日 十月十八日
初代以久公が佐土原藩主となられた慶長八年(1603)のこの日を祭日とされました。
十ヵ町村大運動会
祭礼の日には例年各町村から選出された子どもたちが技を競う
大運動会が開催され戦前まで続けられました。
境内記念碑
懐徳揚烈碑 忠寛公を顕彰する石碑、祭田之碑、安政農業祭の碑、招魂碑、戊辰・西南・日清・
日露戦役等の碑があります。辨天山[MAP]登山口はこの境内から登れます。
金柏寺釈迦堂(新五上) [MAP]
御本尊は阿弥陀如来。
金柏寺は伊東義祐が建立した彼の菩提寺といわれ、現在五日町に釈迦堂があり、20cmほどの金銅製の降誕釈迦仏の像が残り(背に金柏寺の記入あり)旧暦四月八日の日は、この像に甘茶をかけてお祭りするのが佐土原の「花まつり」である。
木食仏はこの堂に座る丈六仏である。
寛政八年(1796)の末、佐土原に木食上人は足を留めた。人々が金柏寺釈迦堂に安置する釈迦仏を彫って頂こうと懇願したのであった。仏体の裏には「帰命頂礼」以下、上人がよく用いる言葉が記してあるが、現在ほとんど読み取れない。西南の役で堂宇は炎上。人々は大仏を救おうとして漸くその上半身だけは取り出すことができ、現存している。
前島津 家久・豊久公墓地 昭和五十四年町指定遺跡 [MAP]
ここは豊久公の菩提寺天昌寺跡です。天正七年(1579)それまで佐土原にいた伊東氏にかわって、城主になったのは島津家久でした。彼は鹿児島の串木野から七百余名を従えて入城し、佐土原を基地にして島津の勢力を全九州に広げた武将であり、若い頃の旅日誌その他から、文学面にも教養の高い立派な武人であった事がわかります。
天正十五年、急病で死去41歳、その子豊久は18歳であとを継ぎ、秀吉に従って功を立て藩の基礎を固めました。
慶長五年(1600)関ヶ原合戦には叔父の義弘に従って出陣、最後はその身代わりとなって戦死しました。ときに九月十五日、13名の部下が殉死しました。子供がないので城明け渡しとなり、一族は日置郡吹上町永吉に引き揚げました。
三年後垂水から島津以久が入城、佐土原藩の祖となりました。この島津に対し家久、豊久は前島津と言います。この墓碑群は佐土原に残る前島津唯一の遺跡です。
十七基の墓は前島津の一族や家臣のもの、関ヶ原合戦で豊久に殉死した若者や、庄内の変に戦死した者の墓もみられます。
縁室如従大姉 家久の母
蘭香永春大姉 家久の妻
天岑昌運大居士 豊久公
梅天長策公大禅伯 家久公
僧日講遺跡 昭和十七年県指定史跡 [MAP]
日講上人は日蓮宗の不受不施派最高の学識者として尊敬されていましたが、江戸幕府の宗教政策に従わなかったため、寛文六年(1666)佐土原に預けられました。当時の四代藩主島津忠高は幕府から追放された上人を手厚くもてなし、藩士もいろいろな教えを受けました。
上人はこの地で日蓮宗の入門書として現在も大切にされている「録内啓蒙四十二冊」を著すなどしたほか、上人の没するまでの三十二年間の日記「説黙日課」を残しました。この日記は当時の佐土原を記した大切な資料となっています。
多楽院 真言宗黒貫寺末 大日如意輪寺多楽院 [MAP]
応仁二年(1468)開山盛存師。
昔から権力者になった者は、前の権力者の遺跡・遺物を壊してしまうのが普通です。佐土原城下でも前の領主伊東氏の遺物はなかなかみつかりません。そんな中で多楽院境内の二つに折れた供養塔は、永禄八年(1565)伊東義祐が建てたとみられ、伊東氏五代祐堯・六代祐国・七代尹祐の戒名だけの供養塔が残っています。もちろん義祐の銘はありません。それで破壊を免がれたのでしょう、寺にとっては義祐と多楽院の関係を現す貴重な板碑です。
御祭神 火之迦具土神 天之児屋根命
愛宕神社の創建は古く養老二年(1300年代)正月二十四日に丹波の国(京都)桑田郡鎮座愛宕神社の分霊を祀った伝えられています。愛宕さまは火の神様で、燃えやすい木造家屋に住む私達を火の災いから守って下さる大切な神様です。
夏祭りは御輿が町を巡幸し、勇壮なダンジリの喧嘩は特に有名です。秋の獲り入れに感謝する祭りと火の祭りには神楽が奉納され参拝者も多く今でも町の花です。
愛宕神社夏祭り ダンジリ喧嘩
仏教は、七世紀に我国に伝来以来、朝廷や幕府の庇護のもとに千百年余りの間隆盛を極めました。
十輪寺は仏教隆盛時に、僧侶が神社の神官を兼ねて、お祭りする神仏混交又は神仏習合という、神仏一体の姿の真言宗別当寺として愛宕神社に並立して創建されました。
明治初期に始まった廃仏毀釈で神社だけ残り、十輪寺は愛宕神社の長い階段を登ったすぐ右側の林の中に寺跡が残っています。
宝塔山公園 [MAP]
大光寺の開山和尚、嶽翁長甫は貞和六年(1350)彼の遺言とされる掟書に、自分の死後は”宝塔山に埋めるべし”と書き残しています。
六百年以前から宝塔山と呼ばれ、開山和尚のねむる山、ミニ八十八ヶ所の霊山、そして故郷の山として親しまれてきたのは、その心のあらわれでしょう。
昭和三十一年(1956)このお山を町民の憩の場としようと、有志の人々が”宝塔山公園推進会”を結成、以後現在まで会員の奉仕作業等で、この750本に及ぶ桜の植付、そして施肥、下払いは、同会でなされています。
桜の名所のこの宝塔山は、大光寺と中心に佐土原の歴史を物語る、祖霊のねむる山であり、心を豊かにしてくれる、緑と花に包まれ、広い展望にめぐまれた公園です。
(宝塔山公園展望台から北東方向)
大光寺・古月禅師分骨塔 [MAP]
大光寺
臨済宗妙心寺派仏日山金地大光自国禅寺と号し、本尊は十一面観世音菩薩、建武二年(1335)嶽翁長甫を開山和尚、田島伊東四代祐聡を開基として創建されました。仏師康俊が彫った騎獅文殊菩薩脇侍附天蓋一面(国指定重要文化財)および木造地蔵菩薩半跏像(県指定文化財)が宝蔵されています。江戸時代には島津氏から寺領七十五石を給されました。五代藩主惟久に請ぜられて四十二世として入寺した古月禅師は大光寺中興とされています。
古月禅師分骨塔 昭和九年県指定文化財
古月禅師は大光寺四十二世の住職であるが、東の白隠、西の古月と称せられた程の名僧で、江戸時代中期の仏教界に多大な影響を与えました。
久留米の福聚寺で没しましたが、遺言により分骨したのがこの無縫塔です。
木造地蔵菩薩半跏像 昭和四十年県指定文化財
この像は文殊菩薩を造立したとき、康俊あるいはその弟子の手になったものであろうといわれている。(無銘)造りはヒノキ材の寄木造り、布張り錆び下地に彩色され、玉眼を入れ両耳をうがっている。現在下地色ばかりで彩色はよく気をつけなければわからない。頬に近づけた指の動き、きれ長の細い目、丸みをおびた面相等は鎌倉期の作風と言われる。
いつの頃からか、右手が耳もとにあるせいであろうか、耳の病気に悩む者が、穴のあいた石を差上げ祈願すると全治すると伝えられ、数多くの石がひもでつるされている。
※大光寺の秘仏の為、写真なし
木造騎獅文殊菩薩及び脇侍付天蓋一面 昭和十九年国指定重要文化財
運慶五代の孫康俊の作になる騎獅文殊菩薩は、木造、彩色、玉眼造りである。右手に剣、左手に巻物を持ち、従者として優填王、最勝老人、仏陀婆利尊者、善財童子を従えており、口を開き、きばをむきだした獅子の上に趺座している。
菩薩頭上の天蓋は、木造、漆箔、銅製の飾り金具つきで、円形の中心に蓮の花を置き、これに天女三躯を配し、周囲に八葉の吹き返しをつけている。
※大光寺の秘仏の為、写真なし
乾峯士曇墨蹟六種 昭和四十年国指定重要文化財
乾峯士曇は鎌倉時代の名僧で当時わが国屈指の書家でもあった。大光寺に士曇の書を多数残すのは、建武二年同寺を開山創建した嶽翁長甫が士曇の高弟だった関係である。
墨蹟六種は、(一)大光寺開堂祝偈一巻、(二)圜悟禅師法語二幅、(三)建仁寺常楽庵造塔幹縁疏一巻、(四)南禅寺上堂法語一巻、(五)授嶽翁長甫伝衣偈一幅、(六)書状六通である。
※大光寺の秘仏の為、写真なし
鬼子母神 法華宗大本山 京都本能寺末 [MAP]
子どもの神さま佐土原鬼子母神として広く知られるが、正しくは恵日山吉祥寺と号す。
開基は大隅国種ヶ島慈遠寺の住僧であった宝正院日種上人。開創年に二説あり、寺記には天正六年(1578)日向国に進攻した島津氏佐土原入城の時、島津家久公に招かれ寺を建立とあるが、慶長八年(1603)初代藩主以久公の時、寺を建立という説もあり、今後の解明が待たれる。元和元年(1615)三代藩主島津久雄公の寄進により鬼子母神堂を建立。諸病平癒等の祈願所となる。島津公、秋月公の信仰も集めた。当山の鬼子母神像はかつて島津軍の陣中における守護神であったと伝えられる。
はぜ馬場と、はぜの木 昭和五十四年町指定 [MAP]
この道は、その昔城下町と藩の米倉庫のあった、佐賀利や徳ヶ渕の港に通ずる重要な産業道路でした。この道路脇にそって、はぜの木が植えられ、お侍さんがこの道で馬をとばすので、誰言うとなく「はぜ馬場」と言うようになりました。
このはぜの木が植えられたのは、百二十年余り前、その頃の藩は財政にいきづまり、建て直しのため藩内各地の通路脇や空き地にはぜの木を植えさせ、その実からローソクを製造し、藩の専売品として大阪に送り出し、現金収入をはかったのです。
佐土原にとって、このはぜは工業生産導入の第一歩となりました。意義深いはぜの木なのであります。
世がかわり、昔を物語るその面影を残すのは、ここ「はぜ馬場」のはぜの木だけになりました。大切に残したいものです。
古月禅師生誕地 [MAP]
古月禅師は寛文七年(1667)九月十二日に佐土原町佐賀利のこの地に男4人、女1人の3男として生まれた。
「東の白隠、西の古月」と称されたほどの江戸期禅宗中興の祖古月禅師は、佐賀利瑞光院宗密和尚について学び、その後松巌寺一道和尚に弟子入り、十歳で禅宗の仏門に入った。
後に藩主惟久の命により大光寺四十二世住職となり庶民の生活善導に心をくばった。禅師の人生訓を歌い込んだ盆踊り唄「いろは口説」は有名で、今も町民に親しまれ、唄い継がれている。
曽我殿の墓 [MAP]
地区の鎮守として大切に保護されている。大光寺と同じ中世期作の五輪六基と、三重層塔二組四基、中心の五輪は両側に二重層塔を置き、石垣が巡らしてある。中央五輪は虎御前、両側は五郎、十郎の墓と地域で言い伝えられている。両側の層塔は笠石の大小から、高さ3m余りの三重層であったと思われる。
初めて田島に下り領主になった伊東祐明以下田島伊東氏の墓群(誰のものかは不明)といわれているが、地区で言う曽我殿の墓として貴重な石塔群である。
本町内ではこの型の五輪は、久峰観音境内東側に50基余り寄せ集めてある。型は小さいが数多く集中し、その他は田島地区を中心に点在する。
佐土原藩十六烈士の墓 [MAP]
貞享五年(1688)三月十九日、佐土原藩では宗藩島津家の名で、御用材を江戸へ送るため、御手船に用材を満載、荷宰領三士が任命された。三士は船頭以下十三名の水主を指導して出航。しかし、遠州灘を航行中暴風のため遭難した。止むなく用材の一部を海に捨て、辛うじて下田港に漂着した。
しかし一部にせよ御用材流出の責任を感じ宰領三士は切腹、水主達も我遅れじと自害し果てた。
封建制度下とはいえ、恐ろしいほどの責任感である。ここ徳ヶ渕の人々は勿論のこと、漂着地下田の人々も、悲しい義烈に心打たれ、大安寺に丁重に葬り墓前には花や香の煙を絶やさず、日向の男たちを誉めたたえたという。
平等寺遺跡 [MAP]
真言宗平等寺は、建久二年(1191)盛融により当地に開山、日照山千手院平等寺と称し、境内十町歩に及ぶ寺院であったという。
千手院とは御本尊が千手観音菩薩なるがゆえで、観音堂の厨子に左右に不動明王と毘沙門天の二仏と並び納まる観音様である。
三尊の頭髪や衣服のあつかいは鎌倉後期の作風を受けた木彫りのすばらしい仏像である。堂内に源頼朝公の位牌があり境内の経塚と称する台地に、公の供養の為と伝えられる五輪塔が建っている。
寺の楼門に据えられた仁王像は黒貫寺にその面影を留め、鐘楼の鐘はその竜頭に綱をかけ観音渕に沈めると、どんな日照り続きでも慈雨を恵むという霊験があったと伝えられている。
いつの頃か平等寺は全焼し、寺宝や古記録を失った事は惜しまれてならない。鐘もその魔力を失い、廃仏によって大阪の正祐寺に流れ、其所でその鐘は寛仁三年(1019)鋳造の朝鮮鐘と判明し国宝指定の名鐘になった。
今この地に立ち往時の平等寺の栄光を想うとき、その文化に浴したふるさと那珂の心に触れた感を禁じ得ないものがある。
胸薬師 [MAP]
胸薬師は建長五年(1253)の創建と伝えられ、祭神は衆生の病気・災厄を除くという薬師如来です。境内にわき出る清水をを飲むと治癒効果があると伝えられ、毎年一月八日と旧暦の一月八日には旗が立ち、地区の人々がお餅をお供えして初祭りが行われています。境内には六地蔵幢が建てられて次の銘文が読み取れます。
田中善智逆修善根也、天正九年辛巳
眷属七世息所同証菩提 七月初五日敬立
久峰総合公園 [MAP]
佐土原町の都市基幹公園で総面積24ヘクタール、運動公園的性格も兼ねた町民の憩いの場として、総合的な利用に供する公園です。
主な施設として、メイン広場、芝生広場、草スキー場、展望台、遊歩道、冒険広場、陸上競技場、パターゴルフ場、テニスコート、弓道場等があります。
久峰観音 [MAP]
第三十代敏達天皇(572~585)の朝、勅命により高僧日羅上人の創建と伝えられています。有名な和泉式部の奉納した古鏡を伝世し、境内には、明應三年(1494)甲寅、あるいは天文四年(1535)、天文十三年(1544)甲辰等の古石群が見られます。
観音境内には文化文政年間に建てられた松尾芭蕉の句碑「旅に病て夢は枯野をかけ巡る」、宝永年間に建像の撫地蔵(病む人の患部に当たる個所を撫ずれば治癒すとの記)があります。
土産物に久峰うずら車、米飴があります。又この寺は日向七堂伽藍の一つで別称日向七観音とも呼ばれ崇敬を集めています。日向七堂伽藍とは、久峰観音・浅倉観音(倉岡)・黒坂観音(清武)・日之御崎観音(青島)・円南寺(海江田)・松崎観音(赤江)・伊満福寺(古城)で日羅上人が開いたものです。
都於郡黒貫寺(西都)が明治七年に炎上したため、久峰寺の本堂がそっくり黒貫寺に移築されたので、ここには明治八年富田村(新富町)伝宗寺の正観音仏を譲り受け再建され現在に至っている。
廣瀬築城想定及び沿革 [MAP]
明治二年(1869)十月一日佐土原藩主島津忠寛公は江戸より帰国し、佐土原の転城先を広瀬と決めて直ちに着工した。城の設計は山鹿流の軍学者で森五太夫高助がしたという。
南の石崎川に面した城壁は小刻みの電光型、東は大型の電光型、北は池や沼、西は久峰より発する権現川で囲い、南の石崎橋を追手、北を搦手とした。築塁や運河の技術については藩士金丸惣八が総監督を務めたという。
此の城はわずか一年余りで建設が中止となり完成する事なく姿を消した。どの様な建物があったのか、又配置はどうなっていたのか判っていない。
新城下町は、この地を中心にして発展し、現在に至っている。
マイクロ波通信タワー [MAP]
空にそびえ立つ巨大タワーは、KDDI宮崎海底線中継所(佐土原町大炊田地区)の「マイクロ波通信タワー」で、国際通信のための重要施設です。
高さは約90m、鉄筋コンクリート製で、当地の美しい自然環境を配慮し、構造、外観に工夫が行われています。
このマイクロ波通信タワーは、山口県にある同社の衛星通信所、更には東京の国際通信センターとの間で電波信号を送信、受信するため、上部にアンテナが搭載されています。
みなさんがかける国際電話を鮮明に、確実に、そして大量に運ぶため、より大きくより高く建てられたのです。
なお、同中継所には、世界各地と直接結ぶ海底ケーブル(光ファイバー)が、収容されています。
佐土原温泉石崎浜荘 [MAP]
この温泉は、約1500万年前尾鈴山付近の噴火活動によってできた、花崗岩類の亀裂から湧出する放射能泉で、ラジウム、ヨウ素、塩化物を含みリュウマチ、切り傷、湿疹などに卓効があります。
石崎浜荘は国民宿舎・国民保養センターを併設した、緑濃い松林、青い海原に囲まれた、潮風の心地よい静かな養地です。
アカウミガメ及びその産卵地 昭和五十五年県指定天然記念物
五月から九月まで、日本の太平洋沿岸にやってきて産卵するアカウミガメは、甲長約90センチメートル、体重約100キログラムにもなる雑食性のカメです。佐土原の沿岸には毎年数百頭の上陸が確認されています。
産卵は砂浜に巾20センチメートル、深さ40センチメートルぐらいの穴を掘り、一度に80個から150個のピンポン玉ぐらいの卵を産み落とします。
卵は60日ぐらいで子ガメとなり海へと帰って行きます。産卵のため上陸するアカウミガメは毎年その数が減少しています。その保護のため天然記念物として県指定されました。
陶版の場所 [MAP]
佐土原町観光協会による「陶板マップ(紙版)」もあり、現在でも佐土原図書館などで入手できます。
宮崎市佐土原歴史資料館 https://sadowararekishi.miyabunkyo.com/
宮崎市城の駅 佐土原いろは館 https://shironoeki.com/
(facebook) https://www.facebook.com/sironoeki.4649/
「佐土原町の中・近世城館」宮崎県宮崎郡佐土原町教育委員会 2005
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