2022年4月6日水曜日

神事流鏑馬 宮崎神宮

神事流鏑馬 しんじ やぶさめ





 神事流鏑馬は、宮崎神宮で毎年四月二日と三日に、神武天皇の崩御を偲ぶ「神武天皇祭」を奉祝し、五穀豊穣を祈って、鎌倉武者の装束に身を固めた騎馬武者たちが、馬を疾駆して大弓で的を射る古い神事です。


 馬で疾駆しながら、雁股(かりまた)をつけた鏑矢(かぶらや)で三つの的を順次射る射技で、起源は6世紀(552年)にまで遡ります。

 馬的射(むまゆみいさせ)、騎射(むまゆみ)、矢馳せ馬(やはせむま)と呼ばれていたのが、矢馳せ馬(やばせめ、やばせうま)へと変化し、さらに「やぶさめ」へと転訛、それに当て字されたのが「流鏑馬」と考えられています。

 鎌倉時代に武技として奨励され盛んになり、地方においても神事、祭礼と結びつき、日本各地で現在まで伝えられているものも少なくありません。


 宮崎神宮での興りは明らかではありませんが、古くより「ヤクサミの神事」として毎年秋の祭礼の日に盛大に行われていました。

 天保年間(1830~1844)に高木正朝という紀伊の国人が著した「日本古義」には、


 日向國宮崎神武天皇御例祭禮の流鏑馬を見物せり。

 凡そ馬数千七八百騎に餘れり。

 二十騎或は三十騎ばかり、馬の鼻を隻べて相図を聞くと等しく一度に駆出す。

 其の疾き事矢の飛ぶが如く、雄々しき事又比ばむものなし。

 是吾が神武國のいさをしなるべし。


とあり、また安永年間(1772~1781)に百井塘雨という京都の豪商の息子が著した「笈埃随筆(きゅうあいずいひつ」によると、流鏑馬神事は開始前に神前にて礼式を行っていましたが、その実は競馬として行われていたそうです。

 しかし、近郷近在より千を超える駿馬が集まりいたことから「神武さまのヤクサミ」として盛大に行われていたようです。

 明治三十一年(1898)、宮崎競馬会が設立され馬券が発売されるに至って「ヤクサミの神事」は途絶えましたが、昭和十五年(1940)、皇紀二千六百年奉祝記念事業の事業の一環として、流鏑馬の馬場が現在地に築設され、武家流鏑馬の古儀に則り「古式流鏑馬」が再興されました。

 戦後、連合国最高司令部GHQによる神道指令が発表されたことで一時存続が危ぶまれましたが、昭和二十五年(1950)に再開し現在まで続けられています。



神事日程


四月二日


手組定之義(神前) 午前十時


 その年の神事に奉仕する射手の面々とその順位(一ノ射手、二ノ射手、三ノ射手)と、平騎射の奉仕者と共に、乗用の馬も決定し発表があります。射手の随兵として鎧をつける弓袋差は、これに奉仕すればその年中は無病息災で一家安泰である云われています。






流鏑馬行列(~大淀河畔) 午前十時三〇分


 射手、諸役以下宮崎神宮から川原祓斎場まで、一同装束をつけ行列を整え往復します。

 神宮の森から西の鳥居を出て真っすぐ進み、河川敷に降りてから南下して川原祓斎場まで向かいます。

 川原祓斎場は神代の昔、禊祓の地である筑紫の日向の橘の小戸のゆかりの名をとどめる大淀川の清流に臨んでいます。









川原祓之儀(川原祓斎場 [MAP]) 正午ごろ


 射手一人々々が神事を無事斎行できるよう心身を潔斎し、また馬や諸具一切の穢れを清めます。

 その後、一同祓いが済むと、小戸神社、及び宮崎八幡宮に正式参拝し、恭々しく神前に額づき武運の長久を祈ります。





※令和四年(2022)の流鏑馬行列では宮崎八幡宮への参拝は行われませんでした



帰宮 午後三時





四月三日


神武天皇祭 午前十時


 「七十有六年の春三月甲午朔庚辰天皇橿原に崩りしましぬ。時年一百二十七歳。明年九月乙卯朔の丙寅、畝傍山の東北の陵に葬しまつる」(日本書紀)とある当神宮の御祭神・神武天皇さまが崩御された日をお偲びする祭典。祭典に先立ち天皇が葬られている奈良県橿原市の畝傍山東北遥拝式も行われます。



饗膳之義 午後一時


 装束の着付けを終えた射手諸役の一同は社務所に参着し、各々所定の座につき、饗膳と神酒を賜る。簡素な白木造りの膳の上には、勝栗、素焼きの盃、耳かわらけに乗せた箸があります。



奉幣之義 午後一時半


 一同社務所前に整列し、召立分に応じ順次繰出して祓所にて祓いを終え大前に参着。射手が大幣を受け幣殿階下に進みて、大幣を左―右―左と大きく振りながら、一歩々々大股にて退く。最後に大幣を立て持ち、左膝を着き右膝を折りて恭々しく拝礼します。



馬場入之儀 午後一時五〇分


 順次列次を整えつつ馬場に入ります。射手の面々が奉仕を承って、初めて馬場に入る儀式であり、馬には馬場をよく見せて、この日の奉仕に間違いのないように慣れさせることでもあります。







流鏑馬本儀 午後二時


 先ず馬場の中央にある拝所に伺候した宮司は、「神事流鏑馬仕え奉れと宣る」と総奉行に告げます。総奉行畏みて「おう」と答え、引き退いて馬場本役や射手一同に向い「神事流鏑馬始めませ」と下知し、一同これに「おう」と応じて本儀に入ります。

 馬場は境内西側(護国神社北側)に位置し、柵で仕切った百三十間(235m)の直線コースを䟽(さくり)といいます。途中に六十cm四方の的が三本立ち、䟽からの距離は約五mになっています。

 馬場本役、皆紅金丸の扇を一閃するや、一の射手左遷三度輪乗りして、馬を馬場に追い入ります。射手は馬場を駆けゆく馬上から一の矢、続いて二の矢、三の矢を放ち、的に当たると樅板(もみいた)でつくられた的(一辺六〇cm四方)は千々に砕けて、虚空へ四散します。ちなみにこの当り的は一年の豊穣と発展を祝福する縁起物として珍重されています。





神録授与 しんろくじゅよ


 正位の射手の騎射が一通り済むと、奉仕の射手は一騎ずつ中央の拝所の前まで来て、宮司から神録(紅絹の布)を受けます。神録とは流鏑馬奉納を加味が嘉賞される御しるしであります。射手は馬手の竹鞭の先でこれを受け、「かつぎ物」として左肩にかけ、威風堂々と引き上げるていきます。




平騎射射技 ひらきしゃしゃぎ


 射手の騎射奉仕が終わると、次は平騎射の面々がそれぞれ順位に従って騎射を行います。正位の射手と装束など若干の相違はありますが、実質的には変わるところはありません。平騎射がすめば、神事流鏑馬の一切の行事は終わりとなります。



垸飯振舞 おおばんふるまい


 流鏑馬を目出度く奉仕し終わって、装束を解き、関係者一同に吉例の垸飯振舞があります。垸飯とは古来神武さまの「ヤクサミ」の勝馬を出した馬主が勝祝いに振舞った小豆の赤飯のことです。神前に供えられた大椀の赤飯が撤下されて列席の諸員に振る舞われますが、各自はこれを持ち帰り家族にも頒って頂戴するのが例となっており、これを食すると夏病みせずといわれています。










参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

宮崎神宮神事流鏑馬パンフレット

宮崎神宮公式ウェブサイト

コトバンク 流鏑馬 

平成二十二年度 宮崎県文化講座研究紀要 第三十七輯 宮崎県立図書館[PDF

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