祭神:應神天皇 おうじんてんのう
:神功皇后 じんぐうこうごう
:玉依姫命 たまよりひめのみこと
配祀:伊東祐堯公
鎮座地:宮崎県宮崎市清武町木原五二五番地
例祭日:十月十七日
社殿:本殿(流造)七坪
:拝殿(入母屋造)十四坪
境内坪数:八六四坪
創立年月日:不詳
由緒沿革:
当社は第五十三代淳和天皇の御代、勅宣があり「新羅降伏により一國に一社八幡宮を創建する」との詔により、天長元年甲辰(西暦八二四年)当地に鎮座されました。
特に日向、大隅、薩摩は外国に隣接しているため、一郡に一社を勧請し「中野八幡宮」となったものであります。
その後、都於郡城五代目城主伊東大和守祐堯公(いとうやまとのかみすけたか)は文明十七年(西暦一四八五年)島津家と争奪中の飫肥城に出馬の際、清武城にて逝去されたので当神社に霊を配祀しました。
以来、飫肥藩の尊宗厚く社殿祭具に藩主の家紋の使用を許し又、社領として年十六石、神職家に年二十三石を給せられ、例祭を始め春・秋の大祭に清武の地頭をそて代拝せしめ国家安康を祈念しています。
社殿は、創建以来数度の改修があり近年では明治十年の西南の役で戦火のため焼失、翌十一年復興したが、平成五年九月三日台風一三号で本殿が崩壊し、拝殿、社務所、御輿庫が被害を受け、現在の社殿はその後改築されたものです。
また、中野地区は、江戸時代、飫肥藩清武郷の中心として地頭所が置かれ、その周辺には多くの武士たちが住んでいました。
玉石垣の残る風情のある町並みのほか、安井息軒旧宅(国指定史跡)をはじめとして、多くの史跡が残っています。
安井息軒の生家で、天保二年(一八三一)藩校振徳堂の総裁に滄洲、助教に息軒が任命されて飫肥城下に転居するまで、安井家の住居でした。
安井家転居ののちに隣家の所有となり、大正十年(一九二一)に移築されていましたが、同十二年に公有化され、昭和五十四年(一九七九)に国指定史跡となりました。
平成五年(一九九三)に史跡整備が行われています。
湯地家長屋門 [MAP]
湯地家は飫肥藩士で、知行高百石の清武郷では最も身分の高い家でした。
この門は湯地家の屋敷門で、使用人の住居や馬小屋が一体化しています。
本来屋根は茅葺きでしたが、西南戦争で焼けてからは瓦葺きとなりました。
蓮徳寺墓碑群(市指定史跡) [MAP]
蓮徳寺は、日蓮宗富士門流の寺院でした。
廃仏毀釈のため廃寺となり、現在は石塔のみが残っています。
応仁元年(一四六七)に建立された3基の五輪塔があり、日蓮上人や、富士門流の基礎を築いた日目上人、日郷上人の名があります。
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
宮崎市 中野地区史跡お散歩マップ [https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/culture/art/1428.html]
0 件のコメント:
コメントを投稿