2019年6月6日木曜日

松井用水路 松井神社



 新井手堰 <MAP>




 松井用水路とは、江戸時代に宮崎市南部地域に清武川の水を引くために松井五郎兵衛儀長が私財をもって開削した用水路です。


 松井五郎兵衛儀長(まついごろうべえよしなが)とは、元亀二年(1571)飫肥に生まれ、飫肥藩清武郷地頭とされている人物です。その祖は南北朝時代に日向に下向してきた細川小四郎義門という人物で、清武の南加納に細川政所(まんどころ)という政庁(推定地)を置いて国富荘を治めていました。儀門の子義遠の時、諸県郡の綾を領して姓を綾と改め、綾氏十六世に当る儀長の時に姓を松井と改めました。

 江戸時代まで飫肥藩領清武郷の内、東北方、西北方、上南方、下南方、上恒久、中恒久、田吉、岩切の八ヶ村(現在の宮崎市岩切、南方、北方、恒久、田吉等)は二百二十町(220ha)の田地がありつつも給水は雨水頼りで毎年のように水が不足していました。
 しかし、水を引こうにも中野より丘陵が横たわっていること、加えて南北の地勢の高低を測るのも容易ではなかった為、長らく問題が放置されていました。

 儀長はまず詳細に実地を調査し清武川と大淀川の両河川を観察し、清武川は河口より十四町(約1.5km)木崎原ノ後(現在の木崎橋付近)まで潮の満ちがあるのに対して、大淀川では河口より二里余り(約8km)小松辺り(現在の平和台大橋手前付近)まで潮が満ちてくるのを見て、大淀川の方が土地が低いことを発見し、ようやく心を決し大灌漑工事を行う計画を飫肥藩庁に願い出ます。

 始め藩庁では計画の難航を危ぶみ、また南より北に水が流れることを怪しみ聴許せずにいましたが、儀長の

此事某一人ニ任セラレナハ必す其功ヲ成サン万一事成ラスシテ中道ニ廃シナハ屠腹シテ罪ヲ謝セント思ヒ定メシ体

という建議によって遂に採用されます。

 そして寛永十六年巳卯(1639)十二月に工事を開始、上使橋の下流付近に井堰を築き取水口として、須田木丘(岩切)の岩盤を掘削して水路を延長していき、翌十七年庚辰(1640)三月には延長二里十五町(9.5km)の水路が完成しました。
 これによって灌漑された田地は二百餘町に及び、その余剰をもって新たに開田を進め、合計四百四十五町もの田地が大いに潤うこととなりました。

※四百四十五町(約450ha)=三万石以上(約30,000人が一年間に食べるお米の量

 儀長は工事開始のとき既に70歳という高齢でしたが、その後明暦三年丁酉(1657)に88歳で没しました。

 住民たちはその徳を慕い、寛延元年戊辰(1748)に恒久の稲荷山南東麓推定地に松井神社を建立、昭和九年(1934)に稲荷山頂上に移され、昭和十七年(1942)に現在地に改築移転されました。


 明治二十年(1887)、当時の宮崎・北那珂郡長の川越進(※)が儀長の功績について県を通じて国に上奏し、時の農商務大臣山縣有朋によって追賞されました。

※川越進旧飫肥藩士で清武郷の生まれ。鹿児島県議会議員に当選後、鹿児島県議会議長、及び宮崎県議会議長を経て、後に衆議院に当選し五期を務めた。宮崎分県運動の中心人物。


井堰は昭和九年(1934)にコンクリート堰に改築され、平成七年(1995)には県営農薬用河川工作物応急対策事業で井堰の全面改修を行い、現在でも当地区の田地に用水が張り巡らされています。







 井堰付近の記念碑





 取水口すぐ





 県道高岡郡司分線を跨ぐ箇所 <MAP>




 須田木丘付近 <MAP>






 看護大入口付近の案内板 <MAP>




 分岐点付近 <MAP>





 赤江中学校前 <MAP>




  稲荷山 松井神社 <MAP>







 稲荷山入口~農業高校グラウンド横 <MAP>




 恒久 住宅地内 <MAP>




 八重川合流地点 <MAP>






参考

赤江郷土史 / 石川恒太郎 編
日向水利史 / 松尾宇一 著
宮崎、歴史こぼれ話 No.76 江戸初期用水路を開鑿した松井五郎兵衛 / 前田博仁
宮崎県地方史研究紀要 第18-20輯「松井用水路について」 / 井上重光

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