2017年4月30日日曜日

高屋神社

高屋神社 (旧村社)







祭神:彦火々出見命 ひこほほでみのみこと
  :豊玉姫命 とよたまひめのみこと
  :景行天皇 けいこうてんのう

鎮座地:宮崎県宮崎市村角町橘尊一九七五番地

例祭日:十一月十日

社殿:本殿(流造)六坪
  :拝殿(入母屋造)十五坪

境内坪数:一,〇五六.三坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 創建は、古老の伝えるところによれば、一〇七代後陽成天皇慶長十六年(一六一一)社殿改造の棟木あり、また、仁明天皇嘉祥二年(八四九)当宮の祠官となった旧社家の系図があることから、その古いことがうかがえる。

当社西方の小高い処は、彦火々出見命の山陵と言い伝え、『日本書紀』にいう「日向の高屋の小陵に葬る」とあるのは当地であると伝える。
また、景行天皇が六年間ご駐輦された高屋行宮址とも伝えている。このことは「日向五郡八院旧元集」に、「景行天皇が十一月日向の国に到り行宮を起こしてここに居たまう。これを高屋宮という。武内宿祢、彦火々出見命の山陵を知り、そこで御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である。」と書かれている。

山陵付近には命にちなむ地名が残っている。

竹園(たけぞん)は、命のご降誕の時その臍の緒を切った竹刀を投げた所と伝える。
袍ノ園(いやんそん)は、命の臍の緒を切った所と伝える。
安園(やすぞん)は、命のご降誕の地と伝える。
その他、天神川・御手洗川、犬ヶ城等の地名が残っている。

当社はもともと高野(高屋)八幡宮と称していたが、宝暦時代以降高屋宮と称するようになり、明治になって高屋神社と称し現在に至る。







↓書き起こし文

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高屋神社


 宮崎市村角町字橘尊一九七五
祭神 彦火々出見命
 景行天皇
 豊玉姫命

 神社に関する縁起並びに棟木等によれば、人皇八代後陽成天皇の御宇慶長十六年(紀元二二七三年)に社殿の改造の棟木あり、又神官の系図により仁明天皇の嘉祥二年(紀元一五〇九年)に神官となりし事記載あり。このことによって、その由緒が伺える。

 更に神社の西方に小高き處あり、彦火々出見命の山稜と言伝う。即ち日本記に言う日向の高屋の山稜に葬るとあるは、即ち是なり。
鵜戸山寺建立並びに再興年代綠に景行天皇筑紫に座すこと四ケ年日向宮崎郡村角と言う處、天皇仮皇居地の霊山なり、高屋と言う神武天皇社(現在の宮崎神宮)に近し、日向五郎八院旧元集に景行天皇が、この高屋の宮を定めて、功臣武内宿称をして、彦火々出見命の山陵を定めて鎮祭し、高屋八幡宮と言う記録がある。

 右御陵より約五十米北方に母場御前と言う處あり、そこは火々出見命御降誕の時、竹刀で臍の緒を切った後、其の竹刀を投ぜ給ひし處で、中古迄は其の辺に孟宗竹ありしも、今は絶えてなく明治八年十二月開墾して、村役詰所の家屋を新築せり。

 北西の約百米隔てて、字安尊と言う處あり、火々出見命御降誕あらせ給いし所と言い伝う東の方五十米程隔てて胞之尊と言う處あり、火々出見命の御胞を納め奉りし所と言い伝え、今は宅地となりしが其の庭中に高屋神社祭典の節は、御奉納所と申し奉りて奉幣する處あり。
 又、天神川、御手洗川という川あり、天神川は火々出見命に献る御飯を炊きし處と言い伝えて村民此の川上の水口にて手足を洗うことなし。御手川は、天神川の下流で同命御降誕のとき鹿葺津比賣命が、臍の緒を切って御手を洗い給いし處と言い伝う。

 右の外に中尊、橘尊、京尊、高尊、ウ尊、クモ尊、正政所、助政所などと稱するところがある。
祭典の日 神輿東方松林の内に行幸し給う行宮所あり。

 此の所は仮の皇居と言い、又、当宮を西方へ六〇〇米の處に犬ヶ城と言う處あり、狗人の住み給う處なり、即ち火酢芹命の旧地と言い伝えられる。


例祭十一月二十三日

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境内社 若宮神社







また、境内参道周辺には、近隣より集め合祀されたと思われる、弘法大師像、猿田彦大明神などの石仏などが祀られています。







高屋神社神楽 平成二十八年三月指定宮崎市無形民俗文化財 

三月 社日祭

春神楽は村角神楽と呼ばれ、五穀豊穣や厄祓を祈念して舞われる。
当日は三十三番の演目のうち十八番が奉納される。







参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年4月21日金曜日

八幡神社(島之内)

八幡神社(島之内) (旧村社)





祭神:足仲彦天皇 たらしなかつひこのすめらみこと
  :息気長足姫命 おきながたらしひめのみこと
  :誉田天皇 ほんだのすめらみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市島之内大字七五九九番地

例祭日:十一月十五日

社殿:本殿(流造)    四坪
  :拝殿(入母屋造)八.八坪
~平成二〇年十一月改築

境内坪数:六三六坪

創立年月日:養老二年(七一八)十月十五日

由緒沿革:
 社蔵の由緒によれば、筑前筥崎八幡宮より勧請、解除崎八幡と称していたと伝える。
往時は那珂郡広原一二〇町の大地主神として尊崇され、領主よりは十石の社領が寄進されていた。
また、「宇佐大鏡」によれば、永保三年(一〇八三)宇佐神宮領として広原荘が設置されたことから、宇佐八幡を勧請したのが起源ではないかとも思われる。当時広原八幡と称されたと伝えている。

慶長五年(一六〇〇)伊東、島津両氏の戦乱にかかり、社殿財宝ことごとく烏有に帰し古文書等も焼失した。
江戸期西海大地震後、寛文四年(一六六四)十一月再興の記録がある。

当社宮司家(児玉家)に伝わる紀元書によれば、応神天皇(誉田天皇)は仲哀天皇(足仲彦天皇)と神功皇后(息気長足姫命)の第四子に当たられ、御年四歳にして皇太子になられたが、父天皇早世の為母后摂政の間、老臣武内宿禰がこれを補佐して政務をとったと伝えている。
この故事から、古来幼童の守神、特に痴痢止、七五三の守神として、ご神徳高く広く信仰を集めている。

平成に入り島之内八幡神社改築検討委員会を立て上げ、地区会の資金と地区内外の浄財を財源として平成二十年(二〇〇八)十一月改築した。










境内社・若宮神社




また境内裏手には地区の祖霊社があり、また西方三百米には白山神社が鎮座しています。







参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年4月19日水曜日

堤内天満神社

堤内天満神社 (旧村社)






祭神:菅丞相 かんじょうしょう (菅原道真公の別称)
  :大己貴命 おおなむちのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市大字堤内小字橋元二三五番地

例祭日:十一月十三日

社殿:本殿  二坪
  :拝殿(入母屋造)八坪

境内坪数:五〇九坪

創立年月日:天文十一年(一五四二)十一月二十五日

由緒沿革:
 将軍足利義晴、時は桃山時代だがその文化も終わりに近く、また各地の荘園も末期の頃、すなわち天文十一年(一五四二)十一月二十五日創立の棟札がある。

ご鎮座の境内は、貞享三年(一六八六)丙寅四月秋月種封によって管轄されたことは、金崎村と同じである。
元禄二年(一六八九)己巳三月に禄高の増があり、この村内からは百五十一石余の分賊をうけている。

また日向五郡の古歌に

宮崎は曾井清武に田野浮田久津良高浜堤内まで

とあるところからして、古い時代から一村をなしていたことを思わせる。

明治維新後に村社となりご祭神にあやかって境内一帯並木をはじめ梅の林をなしている。(道真公は梅の花を好んだと云われている)








社殿左手、末社 仔細不明









参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

大島神社

大島神社 (旧村社)






祭神:天津彦火瓊々杵尊 あまつひこほににぎのみこと
  :菅原道真公 すがわらみちざねこう

鎮座地:宮崎県宮崎市大島町本村二〇〇番地


例祭日:十一月十日

社殿:本殿(流造)  五坪
  :拝殿(切妻造)十二坪

境内坪数:二八〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 所蔵の天文五年(一五三六)八月三十日当社再興の棟札よりみて、それ以前の創祀である。
その後、文禄四年(一五六一)上棟一宇天神再興干時三月二十二日の棟札がある。
この棟札からして当時から天神様であり、いまに通称するはそれにならったものである。

棟札をさらにあげると、慶長十二年(一六〇七)丁未八月二十五日大旦那小河友兵衛によって、天神御社一宇の御造営とあるのをはじめ、

寛永十五年(一六三八)九月二十二日奉再興天神御社一宇
寛文四年(一六四四)上棟奉再興天神御社一宇
元禄四年(一六九一)霜月吉日、

等の棟札がその由緒を物語っている。

さらに天文三年神主源盛庸校正の「小戸大明神別宮摂末社神的略記」には
一座去本宮子丑第三十丁余、在大島村南向いし
とあり、その所在と方角を明記している。












参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

八坂神社(跡江・西)

八坂神社(跡江・西) (旧無格社)




祭神:天津児屋根命 あまつこやねのみこと
  :素盞男命 すさのおのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市跡江三三二三番地ノイ(宮崎県宮崎市跡江2923−4) (県道9号線近く)

例祭日:十一月十五日

社殿:本殿 六坪

境内坪数:一五坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:不詳






境内横に地区の講中のお堂があります。

松無田(まつむた)講中










参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

八坂神社(跡江・東)

八坂神社(跡江・東) (旧無格社)






祭神:天津児屋根命 あまつこやねのみこと
  :素盞男命 すさのおのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市跡江一六〇二ノ乙(宮崎県宮崎市跡江2401−1) (凌雲堂[社会福祉法人]特別養護老人ホーム悠楽園近く)

例祭日:十一月十五日

社殿:本殿 六坪

境内坪数:二〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:不詳







2017/4/15:現在、社殿の建て替え中で祭神は御不在でした。

↓は2016年12月の社殿です。








参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

八坂神社(糸原)

八坂神社糸原 (旧村社)






祭神:須佐之男之命 すさのおのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市糸原三一九ノ一 (県道17号線を国富方面に向かう途中の有田橋を渡ってすぐ左手)

例祭日:十一月十三日

社殿:本殿(流造) 二坪
  :拝殿(切妻造)四坪

境内坪数:四〇坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 創立由緒ははっきりしないが、天和三年一六八三熊野三所大鳥尾権現として再興の棟札があった。往古、伊藤氏の建立という(「三国名勝図絵」)-wikipedia

文政十二年(一八二九十月十八日再興。

元の社号を祇園神社と称していたが明治のはじめ八坂神社と改称した。
「日向地誌」によると、熊野三所大鳥尾権現は、倉岡神社に合祀されたことになっているが、同時に「八坂神社村社なり」と記述されており、その間に復社されたものとみられる。

社地は昭和九年四月、大淀川改修のため現位置に移転した。昭和二十年四月十二日柳瀬大火の際、類焼したが同年七月仮殿建立、昭和三十年九月に現社殿が新築された。







境内の恵比須神社








参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

柏原神社

柏原神社 (旧村社)





祭神:品陀和気命 ほんだわけのみこと - 応神天皇 おうじんてんのう
  :玉依姫命 たまよりひめのみこと
  :息長帯姫命 おきながたらしひめのみこと - 神功皇后 じんぐうこうごう

鎮座地:宮崎県宮崎市大字柏原八二一番地

例祭日:三月十八日(春神楽)

社殿:本殿(八幡造)九坪
  :拝殿(八幡造)十四坪

境内坪数:三一四.八八坪

創立年月日:正和四年(一三一五)八月

由緒沿革:
 古記録によれば、正和四年(一三一五)八月、皇紀一九七五台九十五代花園天皇の御代、惟康親王の御時、守護職土持参河守栄嗣が国土治安を祈り豊前国宇佐宮の御分霊を勧請し奉りし神社と伝える。
当時社録を有し社司を置き神意赫々たるものがあったが、爾来幾多星霜を経て、康正年間(一四五五~)以後再三南北兵乱の地となり、ついに社録を失い一時衰頽を極めた。
元禄年間(一六八八~)再興し神意赫々と揚り氏子の崇拝篤く社殿の改築等時々行われ、明治四年(一八七一)十一月八幡宮の称号を改め柏原神社と改称して今日に至る。


御祭神応神天皇は大陸文化の輸入につとめられ機織技術が伝わり「王仁」が「論語」「千字文」を献じたのも御時であったと云われています。

御祭神の御父君は第十四代の仲哀天皇、御母君は神功皇后であります。
神功皇后は仲哀天皇御崩御ののちご懐妊のまま朝鮮半島に遠征なされ百済高句麗を制圧されたといわれています。
その後、応神天皇を御安産になり長年に亘り国事に当られたといわれています。

八幡様は全国に四万社あるといわれていますが、大分県の宇佐神宮がその総本宮であります。
八幡様は国民多数の信仰が厚く弓矢武神の神、学問の神、安産の神として特に有名であります。















社殿裏手、末社 仔細不明











参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

吉野若宮神社

吉野若宮神社 (旧村社)






祭神:正哉吾勝々速日天忍穂耳命 まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと
  :天照皇大神 あまてらすすめおおみかみ
  :大己貴命 おおなむちのみこと

鎮座地:宮崎県宮崎市大字吉野一〇八番地

例祭日:十一月十三 日

境内坪数:九畝五分

創立年月日:不詳

由緒沿革:
 大字吉野字宮元に鎮座せる村社で祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を正祀とし、天照大神(あまてらすおおかみ)を配祀としてある。

其の創立の如き、或いは天正四年(一五七六)十一月とし或いは年月不詳として記録定まらざる所であるが、伊豆の国の浪人川越数馬重爲(かわごえかづましげため)という者、伊東氏に旧縁あるを以って日州那珂郡に来たり、やがて諸県郡吉野村の地頭となった。

斯くて以前信仰した北山大明神の御分霊を伊豆の国より奉還し、之れを此の吉野村に奉祀し後ち若宮大明神と称して一村の鎮守としたのである。

尋ねて伊東氏都於郡没落後は、川越主殿重郷(かわごえしゅでんしげさと)及び川越太郎右衛門重潔かわごえたろうえもんしげきよ、若宮大宮司となったが、
正保三年九月十三日(一六四六)川越十郎右衛門重堯かわごえじゅうろうえもんしげたか)、神職宮永石見守(みやながいわみのかみ)等社殿を改築し、
享保元年(一七一六)十一月十三日には願主川越清之亟(かわごえせいのじょう・川越利助(かわごえりすけ等、
元文四年(一七三九)四月六日祭主田部朝臣たなべあそん・宮永石見守みやながいわみのかみ)、また改築のことあり、
それより天明八年(一七八八)九月十三日には祭主永伊豫守みやながいよのかみ・鑰取り・緒方外記おがたげき)、
慶応二年(一八六六)十一月には永伊豫守みやながいよのかみ願主吉野村組頭利三郎(りさぶろう)等の名を以っていずれも社殿を改築した。

社殿は明治三十九年(一九〇六)若宮神社境内末社(旧字宮元)に勧請し八坂神社・菅原神社・大将軍神社・大土神社が合祀されている。

その後、昭和二十九年(一九五四)十二月に改築したが永い年月の風雨による破損の為、平成二十六年(二〇一四)に新たに造営となった。







境内末社 八坂神社・菅原神社・大将軍神社・大土神社







境内 水神様









参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

2017年4月12日水曜日

富吉神社

富吉神社 (旧村社)







祭神:誉田別尊 ほんだわけのみこと - 応神天皇 おうじんてんのう
  :息長帯姫命 おきながたらしひめのみこと - 神扐皇后 じんぐうこうごう
  :足仲彦尊 たらしなかつひこのみこと - 仲哀天皇 ちゅうあいてんのう

鎮座地:宮崎県宮崎市大字富吉四八九八の一番地

例祭日:十一月十五日

社殿:本殿(八幡造) 二.五坪
  :拝殿     一八坪

境内坪数:二、〇八七坪

創立年月日:久安四年(一一四八)

由緒沿革:
 当社は、八幡宮の本宮である宇佐神宮のご分霊を勧請したもので、富吉村の産土神として祀られてきたと伝える。
文安四年(一四四七)には、領主藤原(伊東)第十一代当主祐堯公により社殿造営。
文明十年(一四七八)には時の領主牧野越中守により社殿の造営が行われている。
さらに慶長五年(一六〇〇)、元文二年(一七三七)、文政十年(一八二七)にも社殿の造営が行われ、明治二十四年に半年の期間を要してご造営されている。
現在の社殿は平成十二年に造営されたものである。

明治四年十一月村社に列格、同三十九年四月神饌幣帛料供進すべき神社に指定される。

大正三年頃まで十一月頃に流鏑馬が行われていた。現在、水流地区に[躍蚕馬場]と地名が残る。

 皇后は武運に優れた方で仲哀天皇御崩御の御懐妊のまま朝鮮半島に遠征され百済、新羅を制圧されたと言われています。
その後、応神天皇を御安産になり長年に至り国事に当たられ百歳の長寿を全うされた、と言われています。

 八幡様は全国に四万社あると言われていますが、大分県宇佐神宮がその総本山であります。
八幡様は国民打数の信仰厚く弓、矢、武神の神、学問の神、安産の神として特に有名であります。








御神木 幹廻:三.七M
    樹令:一六〇年








参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]