2017年3月10日金曜日

恒久神社

恒久神社 (旧村社)






祭神:木花開耶姫命 このはなさくやひめのみこと
  :邇々杵命 ににぎのみこと
  :彦火火出見命 ひこほほでみのみこと
  :火酸芹命 ほすせりのみこと
  :火明命 ほあかりのみこと

鎮座地宮崎市大字恒久字宮ノ元五八二番地

例祭日:十月十七日

社殿:本殿(流造) 九・九坪
  :拝殿(入母屋造)十二坪

境内坪数:一、九一二・九五坪

創立年月日:寛治四年(一〇九〇)霜月十五日

由緒沿革:
 当社は寛治四年(一〇九〇)十一月十五日の創建で、五社大明神を祀る都万宮より勧請一ノ宮大明神を称したと伝える。

当社の由緒を『日向の伝説』に見ると、

「児湯郡の都万神社は大昔から有名な社で国人の尊崇が厚く、毎年九月九日の大神事に遠近から詣でるものが非常に多かった。
ところが堀河天皇の寛治元年の九月大雨大洪水があって九月九日は来たが大淀川が渡れない。
かくて恒久地方のものは都万神社の祭礼にお詣りすることが出来なかった。
この年から大淀川南の村は五穀が稔らず、悪疫が流行して人畜の死するものが夥しかった。
或る時日下部春隆というものの七歳になる女子に神がかりがあって ” 人々が苦しむのは氏子の者が三年までも神事に参らないからだ。大淀川の南に都万神社を勧請して崇信せよ ”と神勅を伝えた。
氏子達はいかにもと思って、直ちに田元神社の地に御仮殿を造ってご分霊をお迎えし、一方現在の地に宮柱太しく社殿を営み、寛治四年十一月十五日仮宮から遷し奉った。 」

と伝えている。

また、『日向地誌』によると、「延宝六年(一六七八)に素戔嗚尊、稲田姫命を合祀した」ともある。

代々領主領民の崇敬厚く、社領三百石の寄進があり、社殿の修理、再興造営については、寛治以来文化十一年(一八一四)まで七二四年の間に、十五回にもおよんでる。

明治四年村社となり恒久神社と改め、町民の尊崇が厚く、ことに安産の霊験が著しいとして婦人の参拝者が多い。 










駒宮様(童女の守護神)




都万の宮を江南の地に遷すべし、吾江南の住民を守らんと神懸して御神託を告げた。
都万神社の神主、日下部春隆の息女、隆姫を祀る。
後世、御年の神(豊作の神)を合祀す。




若宮様(童子の守護神)




江南の恒久の地に、四方に楠四本生立つところあり。
そこに宮居造営せよと、一人の童子忽然と現れ御信託を告げて姿消え給うたとある。
童子男を祀る人皇七十三代堀川院の御世国富の荘大官、稲富宿祢は神禄三百石を寄附したとある。
後世、稲荷の神を合祀す。

以上、日下部の子孫 金田氏(奉仕堂)所蔵一の宮大明神(恒久神社)縁記による。






参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

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