祭神:足仲彦尊 たらしなかつひこのみこと
:譽田別尊 ほんだわけのみこと
:息長足姫尊 おきながたらしひめのみこと
鎮座地:宮崎県宮崎市清武町船引六六二二番地
例祭日:十月十七日
社殿:本殿(流造) 六坪
:拝殿(入母屋造)十七.二坪
境内坪数:七八九坪
創立年月日:寛治元年(一〇八七)丁卯九月十五日
由緒沿革:
堀河天皇の御代、寛治元年(一〇八七)九月十五日の創建と伝えられ、当初は正八幡大神と称した。東海道相模国湯井郷の鎌倉八幡宮の霊神を祀る。
当社の棟札によると、社殿の造営は次のとおりである。
天文十七年(一五四八)戊申十二月十三日大檀那大夫従四位下藤原義祐朝臣の御代大宮司多田義行の時社殿再興
承応三年(一六五四)申午十一月二十五日領主有馬左衛門藤原朝臣永純公の御代大宮司落合藤左衛門包行の時に社殿再興
享保十二年(一七二七)十月判大宮司落合丹波守包知の時社殿再興
宝暦元丙子年二月大宮司落合丹波守包清の時拝殿再興
文政十三(一八三〇)庚寅年九月神輿寄進三基
天保八(一八三七)丁酉年十二月大宮司落合菊太郎の時石鳥居建設
嘉永三(一八五〇)庚戌年九月十四日大宮司落合豊吉の時拝殿再興(現在のもの)
嘉永六(一八五三)癸巳年十一月大宮司落合豊吉神殿再興(現在のもの)
明治十四年(一八八一)巳年十二月祠掌長友光弥の時拝殿瓦葺となす。
昭和九年(一九三四)申戊六月社掌落合宮次郎、長友伊豆男の時神社鎮座八百五十年記念に境内玉垣建設並びに手水鉢に水道布設す
同四十九年(一九七四)本殿拝殿改築工事施工
同五十一年(一九七六)神池改修工事施工、十二月二十七日石鳥居建設奉献
同五十三年(一九七八)十月一日船引神社神楽保存会結成
同五十九年(一九八四)六月三日鉄筋コンクリート銅巻鳥居建設
同六十一年(一九八六)五月拝殿改修
人皇第五十六代帝清和天皇之六男貞純親王始而賜源姓而四
品任上野大守其嫡男基経親王之第六子称六孫王正四位下任
摂津守兼筑前介貞観十八年十月八日其嫡男満仲正四位下左
馬頭鎮守府将軍任之寛和三年出家謂多田新発意其裔孫多田
任畠山庄司修理亮為鎮西筑紫日向下向也東海道相模国湯井
郷鎌倉八幡宮之垂跡也事者天長地久諸願円満萬民豊榮五穀
成就之霊紳也
境内末社
国指定天然記念物 「清武の大クス」 指定年月日 昭和二十六年六月九日
当社境内には、国指定天然記念物(昭和二十六年六月九日指定)の大クスがあり、通称を八幡クスと呼ばれている。
高さ三十五米、根回り十八米、目通り幹回り十二、三米の大木で、樹齢約九百年と推定される。
地上二米のところで東の方に一つの大枝を出し、その先は枯れて穴があいてる。
主幹は高さ五米で二つの支幹に分かれ、両支幹とも多数の枝を出してよく茂り、枝張りは東西三十三米、南北三十七米にも及ぶ。
主幹の西側には人が出入できる程度の大きな孔口があり、その内部は地上八米くらいまで空洞になっていて、底は八畳敷ばかりの広さがある。なおこの空洞は東の大枝の開口部に続いている。大東亜戦争中はこの空洞を防空壕代わりに利用していたという。
幹にはキズタ、テイカカズラ、カタヒバ、ノキシノブなどが着生して樹齢の古さをしのばせる。
また境内のシイの根元には、珍奇な植物といわれるヤッコウソウも群生している。
船引神楽
江戸時代中期には既に独立した「船引神楽」として定着したと伝えられ、古来、春分の日に五穀豊穣と子孫繁栄を祈願して奉納されています。里神楽であり日中に舞われ、一番太鼓や笛の調子が違うのが特徴です。
参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
0 件のコメント:
コメントを投稿