2019年6月7日金曜日

赤江 戦時遺跡群





宮崎空港を利用した際など、滑走路近くに大きなかまぼこ型のコンクリート製の建造物を見たことのある人は多いと思います。
これは太平洋戦争中の掩体壕(えんたいごう)という施設跡で、内部に戦闘機を収納し空襲から機体を守る為に作られたものです。

宮崎空港があった場所には、かつて旧日本軍の飛行場がありました。
昭和十六年(1941)より赤江地区(津屋原・高畑)の土地を接収し、昭和十八年(1943)に日本海軍赤江飛行場として完成、掩体壕群は戦争が激化し赤江飛行場の重要性が増してきだした昭和十九年(1944)に建造されました。

滑走路北西側と少し離れた本郷北方の丘陵東側の麓周辺に、合せて有蓋中型7基・有蓋小型7基・無蓋中型が37基作られましたが、戦後の開発でほとんどが撤去され現在は有蓋中型4基と有蓋小型3基を残すのみとなっています。

掩体壕は戦時中日本全国で建造され、現存するのは35ヶ所約100基ほどですが、殆どの地域に於いて1~3基程度しか残っておらず、宮崎市に7基もの有蓋掩体壕が残っているのは全国的にみても珍しく貴重なものとなっています。
その他、飛行場周辺、及び本郷地区にかけて軍の病院、対空陣地、弾薬庫、地下指揮所、地下司令部、高射砲陣地、飛行場要因兵舎、パイロット用兵舎などの施設が数多く設置されました。

また、大淀川北側の有料道路近くの中西町に弾薬庫跡[MAP]がありました。
昭和十九年(1944)海軍高射砲隊北村部隊が築いた陣地跡ですが、行政や住人の無理解により平成二十四年(2012)に取り壊され現在は見る事ができなくなってしまいました。

※今回掲載する施設はその殆どが国有地や民間所有地であるため、許可の無い立ち入りや地域住民に迷惑のかかるような行為はお止めください。






[Google Map]



導路

滑走路西端から本郷まで延びる爆撃機輸送用の誘導路。
現在もほぼそのまま一般道路として流用されています。






本郷地区 有蓋中型掩体壕 [一式陸攻(八人乗り)]

一号 (民間所有)[MAP] 幅:27M 奥行:21M






二号 (民間所有)[MAP] 幅:29.5M 奥行:23M





三号 (民間所有)[MAP] 幅:27M 奥行:24M





四号 (民間所有)[MAP] 幅:29.5M 奥行:25M






本郷地区 地下陣地跡 [MAP]
全長55M 幅:2.5M(外)、1.8M(内) 高さ:2M

昭和二十年(1945)三月十八日の宮崎市初空襲によって赤江飛行場が壊滅的被害を受けた為、司令部などが移された場所と言われています。
他にも二本の地下隧道があったとされ、近年同地直上にて陥没事故があり、その際に隧道の中ほどから枝分かれする形で総延長213Mもの横穴壕が発見されました。(現在、以下写真の生活道路以外の枝分かれした隧道は安全の為に全て埋め戻されています。)


西側




東側



内部





本郷地区 殿山地下司令部 [MAP]
殿山という小高い丘の西側の森の中にいくつかの塹壕が点在しています。












田吉地区 有蓋小型掩体壕 [零戦用]






五号 (国有)[MAP] 幅:19M 奥行:10.5M





六号 (国有)[MAP] 幅:14M 奥行:9.5M





七号 (国有)[MAP] 幅:17.5M 奥行:9.5M






田吉地区 弾薬庫 (有料道路北側)

発電機等の機会類や弾薬等を空襲から守る為の施設、もしくはトーチカ跡(鉄筋コンクリート製の防御陣地/特火点)と言われています。
また、現地案内板によるとこの場所に「九六式二十五 mm 単装機銃」が設置されていたようです。






八号  手前側/民間所有)[MAP] 幅:2M 奥行:7M





九号 (右側/民間所有)[MAP] 幅:2M 奥行:7M






田吉地区 弾薬庫 (有料道路南側)[MAP]

認定無し 詳細不明
八号、九号より一回り小さい施設です。






赤江海軍練習航空隊門柱 [MAP]

赤江飛行場発足時のまま現在も残されています。






宮崎特攻基地慰霊碑 [MAP]

赤江飛行場から出撃した特攻隊などの英霊385柱と宮崎県出身者で宮崎基地以外の基地から発進した英霊414柱、合計799柱の英霊など、陸海軍宮崎基地在籍部隊・海軍神風特別攻撃隊・陸軍特別攻撃隊・宮崎県出身陸海軍搭乗員戦死者、及び宮崎空襲時の戦災死亡者が合祀されている慰霊碑です。
上記門柱南側に、宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会によって昭和五十八年(1983)建立されました。











赤江地区 弾薬庫 [MAP]

認定無し 詳細不明 松林内
天井部分が崩落しているため全容は不明ですが、八号・九号と凡そ同型の施設と思われます。








※2021年7月追記

宮崎市による遺跡保存の取り組みとして、2021年3月に二号・三号掩体壕周辺が整備され、駐車場と案内看板が設置されました。



二号・三号掩体壕前 駐車場



三号掩体壕



二号掩体壕



案内看板









※今回掲載して施設はその殆どが国有地や民間所有地であるため、許可の無い立ち入りや地域住民に迷惑のかかるような行為はお止めください。




参考
檍郷土史
宮崎の戦争遺跡 / 福田鉄文 著

2019年6月6日木曜日

松井用水路 松井神社



 新井手堰 <MAP>




 松井用水路とは、江戸時代に宮崎市南部地域に清武川の水を引くために松井五郎兵衛儀長が私財をもって開削した用水路です。


 松井五郎兵衛儀長(まついごろうべえよしなが)とは、元亀二年(1571)飫肥に生まれ、飫肥藩清武郷地頭とされている人物です。その祖は南北朝時代に日向に下向してきた細川小四郎義門という人物で、清武の南加納に細川政所(まんどころ)という政庁(推定地)を置いて国富荘を治めていました。儀門の子義遠の時、諸県郡の綾を領して姓を綾と改め、綾氏十六世に当る儀長の時に姓を松井と改めました。

 江戸時代まで飫肥藩領清武郷の内、東北方、西北方、上南方、下南方、上恒久、中恒久、田吉、岩切の八ヶ村(現在の宮崎市岩切、南方、北方、恒久、田吉等)は二百二十町(220ha)の田地がありつつも給水は雨水頼りで毎年のように水が不足していました。
 しかし、水を引こうにも中野より丘陵が横たわっていること、加えて南北の地勢の高低を測るのも容易ではなかった為、長らく問題が放置されていました。

 儀長はまず詳細に実地を調査し清武川と大淀川の両河川を観察し、清武川は河口より十四町(約1.5km)木崎原ノ後(現在の木崎橋付近)まで潮の満ちがあるのに対して、大淀川では河口より二里余り(約8km)小松辺り(現在の平和台大橋手前付近)まで潮が満ちてくるのを見て、大淀川の方が土地が低いことを発見し、ようやく心を決し大灌漑工事を行う計画を飫肥藩庁に願い出ます。

 始め藩庁では計画の難航を危ぶみ、また南より北に水が流れることを怪しみ聴許せずにいましたが、儀長の

此事某一人ニ任セラレナハ必す其功ヲ成サン万一事成ラスシテ中道ニ廃シナハ屠腹シテ罪ヲ謝セント思ヒ定メシ体

という建議によって遂に採用されます。

 そして寛永十六年巳卯(1639)十二月に工事を開始、上使橋の下流付近に井堰を築き取水口として、須田木丘(岩切)の岩盤を掘削して水路を延長していき、翌十七年庚辰(1640)三月には延長二里十五町(9.5km)の水路が完成しました。
 これによって灌漑された田地は二百餘町に及び、その余剰をもって新たに開田を進め、合計四百四十五町もの田地が大いに潤うこととなりました。

※四百四十五町(約450ha)=三万石以上(約30,000人が一年間に食べるお米の量

 儀長は工事開始のとき既に70歳という高齢でしたが、その後明暦三年丁酉(1657)に88歳で没しました。

 住民たちはその徳を慕い、寛延元年戊辰(1748)に恒久の稲荷山南東麓推定地に松井神社を建立、昭和九年(1934)に稲荷山頂上に移され、昭和十七年(1942)に現在地に改築移転されました。


 明治二十年(1887)、当時の宮崎・北那珂郡長の川越進(※)が儀長の功績について県を通じて国に上奏し、時の農商務大臣山縣有朋によって追賞されました。

※川越進旧飫肥藩士で清武郷の生まれ。鹿児島県議会議員に当選後、鹿児島県議会議長、及び宮崎県議会議長を経て、後に衆議院に当選し五期を務めた。宮崎分県運動の中心人物。


井堰は昭和九年(1934)にコンクリート堰に改築され、平成七年(1995)には県営農薬用河川工作物応急対策事業で井堰の全面改修を行い、現在でも当地区の田地に用水が張り巡らされています。







 井堰付近の記念碑





 取水口すぐ





 県道高岡郡司分線を跨ぐ箇所 <MAP>




 須田木丘付近 <MAP>






 看護大入口付近の案内板 <MAP>




 分岐点付近 <MAP>





 赤江中学校前 <MAP>




  稲荷山 松井神社 <MAP>







 稲荷山入口~農業高校グラウンド横 <MAP>




 恒久 住宅地内 <MAP>




 八重川合流地点 <MAP>






参考

赤江郷土史 / 石川恒太郎 編
日向水利史 / 松尾宇一 著
宮崎、歴史こぼれ話 No.76 江戸初期用水路を開鑿した松井五郎兵衛 / 前田博仁
宮崎県地方史研究紀要 第18-20輯「松井用水路について」 / 井上重光