宮崎市池内町の古賀総合病院の南西方向の山に江戸時代初期まで存在した山城で、別名「池内城」「目引城(目曳城)」「龍峯城」「馬索城」とも呼ばれていたそうです。
標高九十米程の台地に本丸・野頸城・百貫城など複数の城郭跡があったと見られるが現在跡地は畑地の後や雑木林となっている。
山上の一部には電力供給用の鉄塔が建設され、山部の北東斜面は、近年の山麓における病院建設に伴い、広範囲に渡って大きく削平されている。
このように、各所において開発による破壊が行われているものの、古くより地域の人々に城として認識され、保護されてきた。
現在は「池内宮崎城クラブ」や「大宮地域まちづくり推進委員会[LINK]」、宮崎市等各関係者の方々のご尽力によって、宮崎城址の看板や案内が立てられるなど、城址の整備が進められるとともに、平成二十九年度より国指定史跡にするため、宮崎市教育委員会による発掘調査が予定されています。
宮崎城の記録における初出は、『日向記』『土持文書』における建武三年(一三三六)、南朝方の図師随円・慈円親子(乃至兄弟)が池内城(宮崎城)に拠り、北朝方の土持宣栄に攻められ、敗死したとの記事である。
戦国期には、宮崎平野の支配権を巡って伊東氏と島津氏の争いが繰返され、平野部の要衝である宮崎城も、多くその争いの舞台となった。
文安元年(一四四六)、伊東祐尭が県伊東氏の領有していた宮崎城を落とし、落合彦左衛門が城主となった。その後、一五七七年までの百三十年間、宮崎城は伊東氏が領有した。
天文三年(一五三四)、伊東氏の家督争いが起こり、長倉能登守に擁された伊東祐吉が宮崎城に入り、家督を継承した。
天文五年(一五三六)、祐吉は宮崎城で死去し、翌天文六年(一五三七)、祐吉の兄義祐が家督を相続し、宮崎城に入った。
天文十年(一五四一)、長倉能登守が島津忠広と手を組んで叛旗を翻したが、義祐によって鎮圧されている。
その後、義祐は日向全土を支配し、天文二十三年(一五五四)、都於郡城(西都市)へと移った。
伊東氏が日向支配を行った期間、伊東氏が領していた城を俗に伊東氏四十八城と言い、宮崎城もその一つに数えられる。
元亀二年(一五七二)、木崎原の合戦で伊東氏は島津氏に大敗し、続く耳川の合戦において、日向全域の支配権は島津氏へと移った(伊東氏の豊後落ち)。
天正八年(一五八〇)、島津家の老中職にあった上井伊勢守覚兼(うわいいせのかみかくけん / さとかね)が宮崎城に入り、以後、天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉による九州仕置まで、覚兼は佐土原城主島津家久を補佐し、日向支配を統括した。
覚兼自身の手による『上井覚兼日記』(大日本古記録)には、この間の城内での生活が詳細に記されている。
天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州征伐の際、一時期、伊東祐兵が宮崎城に入つたが、祐兵は飫肥(日南市)を知行することとなり、宮崎は縣(延岡)の高橋元種領となり、権藤種盛が宮崎四万石の地頭として、城代を務めた。
慶長五年(一六〇〇)九月二十九日、関ヶ原合戦の余波により、清武城主稲津掃部助の軍勢が攻め寄せ、権藤種盛は自刃(降伏を容れられず、討ち取られたとも)、宮崎城は落城した。
その後、一時期、稲津掃部助が宮崎城に入り、各地で島津勢との間に小競り合いを続けていた。
これは、東軍方の伊東氏の家臣である稲津掃部助が、当初、西軍に属していた高橋氏が東軍方に寝返っていたことを知らずに起こった同士討ちであり、その責任を取らされる意味もあって、慶長七年(一六〇二)、稲津掃部助は主家から誅象されている。
宮崎城は、慶長六年(一六〇一)、徳川氏の指示により、伊東氏から高橋氏に返還された。
慶長十八年(一六一三)、延岡領主高橋氏が改易され、翌慶長十九年(一六一四)、肥前から延岡に転封された有馬直純が宮崎も領有することとなったが、元和元年(一六一五)の一国一城令により、宮崎城は廃城となった。
ジオラマ模型による俯瞰
曲輪、登城口の各名称
宮崎城跡の麓、東側から
満願寺口、冠木門 (落城四百年祭築)
満願寺口、旧案内板
満願寺口、案内板 (大宮地域まちづくり推進委員会設置)
本丸跡
満願寺跡 入り口
上井覚兼が城主を務めた時期を想定して宮崎城のジオラマ模型(1/1000)を作成しました。
作成工程
https://twitter.com/i/moments/888960280285241349
参考:
甦れ宮崎城 完結編 / 田代学 著
みやざき文庫64 大淀川 流域の歴史 第一巻 原始・古代から中世へ / 甲斐亮典 編著
2009年 宮崎市教育委員会 宮崎城跡測量調査報告書 [PDF]
戦国末期宮崎城主上井覚兼と宮崎衆に関する多角的研究 [PDF]