2017年7月28日金曜日

宮崎城跡

宮崎城跡










宮崎市池内町の古賀総合病院の南西方向の山に江戸時代初期まで存在した山城で、別名「池内城」「目引城(目曳城)」「龍峯城」「馬索城」とも呼ばれていたそうです



標高九十米程の台地に本丸・野頸城・百貫城など複数の城郭跡があったと見られるが現在跡地は畑地の後や雑木林となっている。

山上の一部には電力供給用の鉄塔が建設され、山部の北東斜面は、近年の山麓における病院建設に伴い、広範囲に渡って大きく削平されている。
このように、各所において開発による破壊が行われているものの、古くより地域の人々に城として認識され、保護されてきた。

現在は「池内宮崎城クラブ」や「大宮地域まちづくり推進委員会[LINK]」、宮崎市等各関係者の方々のご尽力によって、宮崎城址の看板や案内が立てられるなど、城址の整備が進められるとともに、平成二十九年度より国指定史跡にするため、宮崎市教育委員会による発掘調査が予定されています。




 宮崎城の記録における初出は、『日向記』『土持文書』における建武三年(一三三六)、南朝方の図師随円・慈円親子(乃至兄弟)が池内城(宮崎城)に拠り、北朝方の土持宣栄に攻められ、敗死したとの記事である。
戦国期には、宮崎平野の支配権を巡って伊東氏と島津氏の争いが繰返され、平野部の要衝である宮崎城も、多くその争いの舞台となった。

文安元年(一四四六)、伊東祐尭が県伊東氏の領有していた宮崎城を落とし、落合彦左衛門が城主となった。その後、一五七七年までの百三十年間、宮崎城は伊東氏が領有した。

天文三年(一五三四)、伊東氏の家督争いが起こり、長倉能登守に擁された伊東祐吉が宮崎城に入り、家督を継承した。
天文五年(一五三六)、祐吉は宮崎城で死去し、翌天文六年(一五三七)、祐吉の兄義祐が家督を相続し、宮崎城に入った。
天文十年(一五四一)、長倉能登守が島津忠広と手を組んで叛旗を翻したが、義祐によって鎮圧されている。
その後、義祐は日向全土を支配し、天文二十三年(一五五四)、都於郡城(西都市)へと移った。

伊東氏が日向支配を行った期間、伊東氏が領していた城を俗に伊東氏四十八城と言い、宮崎城もその一つに数えられる。

元亀二年(一五七二)、木崎原の合戦で伊東氏は島津氏に大敗し、続く耳川の合戦において、日向全域の支配権は島津氏へと移った(伊東氏の豊後落ち)。
天正八年(一五八〇)、島津家の老中職にあった上井伊勢守覚兼(うわいいせのかみかくけん / さとかね)が宮崎城に入り、以後、天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉による九州仕置まで、覚兼は佐土原城主島津家久を補佐し、日向支配を統括した。
覚兼自身の手による『上井覚兼日記』(大日本古記録)には、この間の城内での生活が詳細に記されている。

天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州征伐の際、一時期、伊東祐兵が宮崎城に入つたが、祐兵は飫肥(日南市)を知行することとなり、宮崎は縣(延岡)の高橋元種領となり、権藤種盛が宮崎四万石の地頭として、城代を務めた。

慶長五年(一六〇〇)九月二十九日、関ヶ原合戦の余波により、清武城主稲津掃部助の軍勢が攻め寄せ、権藤種盛は自刃(降伏を容れられず、討ち取られたとも)、宮崎城は落城した。
その後、一時期、稲津掃部助が宮崎城に入り、各地で島津勢との間に小競り合いを続けていた。

これは、東軍方の伊東氏の家臣である稲津掃部助が、当初、西軍に属していた高橋氏が東軍方に寝返っていたことを知らずに起こった同士討ちであり、その責任を取らされる意味もあって、慶長七年(一六〇二)、稲津掃部助は主家から誅象されている。

宮崎城は、慶長六年(一六〇一)、徳川氏の指示により、伊東氏から高橋氏に返還された。

慶長十八年(一六一三)、延岡領主高橋氏が改易され、翌慶長十九年(一六一四)、肥前から延岡に転封された有馬直純が宮崎も領有することとなったが、元和元年(一六一五)の一国一城令により、宮崎城は廃城となった。




ジオラマ模型による俯瞰
曲輪、登城口の各名称





宮崎城跡の麓、東側から





満願寺口、冠木門 (落城四百年祭築)







満願寺口、旧案内板







満願寺口、案内板 (
大宮地域まちづくり推進委員会設置







本丸跡







満願寺跡 
入り口




上井覚兼が城主を務めた時期を想定して宮崎城のジオラマ模型(1/1000)を作成しました。






作成工程
https://twitter.com/i/moments/888960280285241349 







参考:
甦れ宮崎城 完結編 / 田代学 著
みやざき文庫64 大淀川 流域の歴史 第一巻 原始・古代から中世へ / 甲斐亮典 編著
2009年 宮崎市教育委員会 宮崎城跡測量調査報告書 [PDF]
戦国末期宮崎城主上井覚兼と宮崎衆に関する多角的研究 [PDF]

2017年7月21日金曜日

八手神社

八手神社 (旧無格社)





祭神:事勝国勝長狭命 ことかつくにかつながさのみこと
  :塩土老翁 しおずちのおじ (塩椎神 しおつちのかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市大字田吉六〇四六

例祭日:十二月九日

社殿:本殿(流造)  四坪
  :拝殿(入母屋造)八坪

境内坪数:二〇〇坪

創立年月日:貞亭二乙丑年(一六八五)三月

由緒沿革:
 貞亭二乙丑年三月の創建とされ、八手大明神と称し、漁猟の神として里人の崇敬が篤い。

高千穂峰に降臨したニニギノ命は、コノハナサクヤ姫を妃とされ、ホデリノ命(海幸彦)とホオリノ命(山幸彦)が誕生する。
ホオリノ命が兄ホデリノ命が兄ホデリノ命の釣針を無くして困っている時、海神国に行くことを教え導くのが当社の御祭神である。
後に神武天皇に「東方に美地あり」と教え東方に向かうことを導くのも同祭神である。


元は日向国赤江河港(字津屋原)に鎮座。その社地は老樹繁茂した林巌の境内であったが、昭和十八年(一九四三)四月この近辺が赤江軍用飛行場として使用されるに際して、移転のやむなきに至り、現在に移転した。

昭和六十二年(一九八七)都市計画による区画整備事業により社殿を改修して神域を現在地に遷座した。

石造の二ノ鳥居は、元文二年(一七三七)船持・日高仁兵衛の銘があり、県内最古級である。赤江港を利用する船持衆の信仰が篤かったと考えられる。








正徳五年(一七一五)の棟札に「御本地十一面観世音守護所」とあり、神仏習合の歴史を今に伝えている。
現在も境内に観音堂が祀られている。















参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]

八坂神社(城ヶ崎)

八坂神社(城ヶ崎) (旧村社)





祭神:素戔嗚尊 すさのおのみこと

  :八王子 はちおうじ
  :稲田姫命 いなだひめのみこと

鎮座地:宮崎市城ヶ崎三丁目九番地四


例祭日:旧六月十四日


社殿:本殿(流造)    四坪

  :拝殿(入母屋造) 一〇坪

境内坪数:三三四坪


創立年月日:
寶暦十一年(一七六一)一月二十四日

由緒沿革:

 寶暦十一年(一七六一)一月二十四日、氏子の疫病を治めることを願い「祇園天王社」として建立された。
造立棟札には、請願 村社勘左衛門、井ノ元起右衛門他多数の祈願によるところが記されている。その後、天保十二年(一八四一)六月五日神社修築されている。

往時、城ヶ崎町隆盛の時代は「祇園神社」と称し、別名「牛頭天王八坂神社」とも称され崇敬されていた。
治三年(一八七〇)六月朔日王政復古につき「夜句茂神社」と改称、社殿の改築を行なっている。
当時官命により「恒久神社」に合祀となったが、祭祀は毎年続けられ、のち復社許可となり「八坂神社」と改称し現在に至っている。




境内、摂社 恵比須神社




境内、水神宮




○男梛(おとこなぎ)と女梛(めなぎ)ご神木





境内にある梛の木は、平安朝の古きから霊験あらたかなご神木として篤く信仰されている。この葉を所持すれば願い事は必ず叶うと言われている。
別名「ちからシバ」ともいい、宮崎では宮崎神宮、江田神社、恒久神社、高屋神社、八坂神社に植栽されている。
男女の仲を結ぶほかに、大願成就、災難除、交通安全、進学入試合格、福運招来が必ず結願すると存じます。
縁起によると源頼朝と北条政子がお互いにこの葉をお守りとし、契りを果たしたことが伝えられている。

古来、母親が嫁ぐ娘に幸せを願い手鏡の中にそっと忍ばせて持たせたとも。
梛の葉を財布に入れておくと金運に恵まれるとも伝えられている。















参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]
八坂神社 配布冊子
宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ http://m-shinsei.jp/

跡江神社

跡江神社 (旧村社)




祭神:彦火々出見尊 ひこほほでみのみこと  
  :天児屋命 あめのこやねのみこと
  :豊受皇大神 とようけのすめおおかみ

鎮座地:宮崎県宮崎市大字跡江八一〇番地

例祭日:十一月十五日

社殿:本殿(流造)  十二坪
  :拝殿(入母屋造)二十五坪

境内坪数:六〇〇坪

創立年月日:寛元四年(一二四六)

由緒沿革:
 古来、神明宮と称し、伊勢の豊受大神を祀ることから、この地を伊勢といった。
寛元四年(一二四六)第八十八代後嵯峨天皇御代建宮とあり、これよりのち天文十年(一五四一)四月第一〇五代後奈良天皇の御代に再興されてより、以来代々領主、代官並びに氏子崇敬者、敬神厚かりし社であった。

維新の改革により跡江神社と改称し、村社に列せられた。

また、この跡江台地には、県内有数の古墳群の1つで、国史跡(昭和十八年指定)の生目古墳群 [ MAPがある。

特殊神事は旧暦の八月七日、八日に豊年踊。現在も奉納祭る。
流鏑馬は宝暦四年(一七五四)に始まるが、今は途絶えている。









境内末社 八坂神社





境内末社 稲荷神社










参考:宮崎県神社誌[宮崎県神社庁編]